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生きるということ、私ということ

信頼できる先輩や仲の良い友人に、この文章を好いてくれる方が多く、改めて載せたままにしようと思いました。

昨年9月29日、僕と友人たちのために、光雲寺の老師が法話と坐禅のご縁をくださりました。その法話の前に僕の方から、禅に触れたことのない友人たちのために少し話をしようと思い、その内容を文章にしました。個人的には老師のお話に繋がるような内容にしたつもりです。仏教用語を極力用いずに、けれどもその心が友人たちに伝わるような文章にしたつもりです。目に触れた方の仏教理解や求道の琴線に幾許かでも触れ得たならばと思い、ここに載せます。

本文
 私たちは生きています。皆さんも生きていますし、私も生きています。ところで、一たび、 何か障害にぶつかって、苦しんで、生きているとはどういうことか、また生を営む私とは何 かということが、問題になったとすると、すぐに答(応)えることもできず、深い山奥のま ん中にただ独り放り出されたような、そのような不安と孤独感に苛まれます。生きるという こと、また私ということは、日常は慣れ親しんでいたはずなのに、このようなときには、如 何ともしがたい未知なものへと変わってしまいます。一度、このような、よくわからない山 路に迷い込んでしまったならば、生きるということ、私ということの意味が分かる地点まで、 あてもなく歩き続けなければならないでしょう。ところで、この難問、奥深い山路は、古来、 さまざまな人々が歩いてきた道です。この先達の足跡を尋ね見ることは、僕たちの道を見つ ける手助けになるのではないでしょうか。

 私たちは生きています。人とかかわりながら、社会に属しながら、あるいは勉学すること を主にして、あるいは働くことを主にして、生きています。人とのかかわりによって、ある いは帰属集団によって、私は輪郭を得ます。かかわる人が思い描くであろう私を予想し、そ のような私が私であると捉え、自らが生きている歴史・社会を通して自分を把握します。成 長するにつれ、私の輪郭は明確になります。これは大事なことです。ところで、このように して形成された私の輪郭が固定され硬直していくとき、かかわる人との間に軋轢が生じた り、歴史や社会というものが息苦しいものに変化したりします。かかわる人や所属集団への 不満に悩まされると、それと同時に、固定され硬直していた私は、ますますその強度を増し ていき、悪循環に陥っていきます。この悪循環は、あるいは貪り(むさぼり)を、あるいは 怒りを引き起こし、自分を見失わせるでしょう。「自分を見失う」というのは、一見私の輪 郭が薄れゆくかのように思われますが、実際のところは、私が私に囚われ、私の根っこを手 放すまいと躍起(やっき)になっている状態で、むしろより深いところで一層自分に繋縛さ れた状態です。この苦しい状態を抜け出すには、すなわち凝り固まった私を解きほぐすには、 どうしたらよいのでしょうか。

 私たちは生きています。寝て起きて、歩き、座り、ご飯を食べ、本を読み、労働しながら 生きています。しかし先に見たように、私たちの「私」は歪んでいきます。歪んでいった私 を、もとに戻すことが必要です。私たちが生きている「もと」(現場、「現」実の「場」所) に立ち返り、そこから、そこに触れることを通して、生きるということの意味を、取り戻す。 これが重要です。ではどうすれば、「もと」へと立ち返ることができるのか。坐禅をすると き、私たちは坐ります。坐って、背筋を伸ばし身体を整えて、呼吸を整えます。丹田で呼吸 しながら、吸う息、吐く息に集中していきます。雑念が湧くと、やり直し。坐るという基本 的な所作、また呼吸という最も基本的な身体活動に、意識を向けていき、それに集中するこ とを通して、生きるということのもとに立ち返るのが、坐禅です。寝ること、起きること、 歩き座ること、ご飯を食べること、本を読むこと、働くこと、一切の所作に集中することを 通して、その意味の源泉へと立ち返ること、これが禅です。ここに学ぶところ、多くあるよ うに思います。仕事に追われ、課題に追われ。あるいは人間関係に悩み。あるいは死とか悪とか、そういった「形而上的」な事柄に苦悶する。このような中では、人は物事に対して雑 になり、大事なことを見失います。まず呼吸から、坐ることから。続いて立ち上がり、歩き、 食べて寝ることへ、集中していく。この集中を洗練し尖らして、恰も錐が嚢を割くかのよう に、閉じた私を突き破り、生きることの意味を、大事なことを取り戻す。これが、禅が教え てくれることでしょう。

 私たちは生きています。この生きるということの「現場」への立ち返りは、極めて難しい。 私たちには、何よりもまず、手本が欠けています。所作に集中すること(これを「工夫」と 言います)、またそれを通して見える実際の「現場」の風光(老師はこれをよく「三昧境」 とおっしゃいます)がどのようであるか、これらをこれから老師の法話に尋ね聞きに行きま しょう。

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