『白隠禅師坐禅和讃』 

 『教行信証』の読書会は少し休会していて、一緒に読んでいた友達には、前回前々回は『無門関』の第一則と第二則を付き合ってもらった。今日は彼女からの要望で『白隠禅師坐禅和讃』を読む。坐禅会などで読まれることの多いお経で、知っている人も多いと思う。この『和讃』についての記事を(読書会の資料だが)以下に載せる。一人でも多くの人の道の求めの助けにならんことを。

<白隠慧鶴禅師について>
 白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師(1685~1768)は日本臨済禅中興の祖。現在の法系は全て白隠下に属すと言われる。(詳しいことはあまり知りません…)
 
<原文>
衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて、水をはなれて氷なく、衆生の外に仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。たとえば水の中に居て、渇を叫ぶがごとくなり。長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず。
六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり。闇路に闇路を踏そえて、いつか生死を離るべき。夫れ摩訶衍の禅定は、称歎するに余りあり。布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、其の品多き諸善行、皆この中に帰するなり。一座の功をなす人も、積みし無量の罪ほろぶ。悪趣いずくに有ぬべき、浄土即ち遠からず。辱なくも此の法を、一たび耳にふるる時、讃歎随喜する人は、福を得ること限りなし。いわんや自ら回向して、直に自性を証すれば、自性即ち無性にて、すでに戯論を離れたり。
因果一如の門ひらけ、無二無三の道直し。無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず。無念の念を念として、謡うも舞うも法の声。三昧無礙の空ひろく、四智円明の月さえん。
此の時何をか求むべき、寂滅現前するゆえに。当処即ち蓮華国。此の身即ち仏なり。

<私釈>
・衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて、水をはなれて氷なく、衆生の外に仏なし。
山川草木悉有仏性、一切衆生は仏性を宿し本来仏である。ここが腑に落ちるか否かに、禅的体験の全ては落着する。衆生と仏の関係は、水と氷のような関係である。水と油の関係ではない。水と油なら、どちらがどう頑張っても、相手に変じることはない。水と氷というのは、生きとし生けるものがその生きる姿において、常に既に生死を超えたものを、すなわち無量寿や空を、映していることを指す。あるいは無量寿や空が形を得て、現れてきたものが衆生である。さて一方で、私たちが無量寿や空を覚知するのも衆生を通しての外ない。衆生を貫き活溌溌地に躍動する大生命を見て初めて、「衆生本来仏なり」と腑に落ちる。さてさてどうかな、そこのところ君にも、分かるかな。

・衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。たとえば水の中に居て、渇を叫ぶがごとくなり。長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず。

 私たちを脚元から貫く大生命を知らないで、安心を未来に、未来に、求め行くことの儚さよ。水の中にいるのだから、水を飲めば宜しい。金持ちの家の子なのだから、それを享受すれば宜しい。即今に現成している大生命、これを知らずに一体何を求めるか。

・六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり。闇路に闇路を踏そえて、いつか生死を離るべき。

 六悪道を輪廻するのは、愚痴のせいである。自分自身に昏く、自分を貫く大生命に昏いからである。無知の上に分別を重ねに積み重ね、一体いつになれば目を覚ます。根本の、無知に気付けよ、気付けよ。気付けば即今に輪廻を超脱していよう。

・夫れ摩訶衍の禅定は、称歎するに余りあり。布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、其の品多き諸善行、皆この中に帰するなり。一座の功をなす人も、積みし無量の罪ほろぶ。悪趣いずくに有ぬべき、浄土即ち遠からず。

 大乗の禅定、その功徳は、称め讃えても称め足りない。布施や持戒といった六波羅蜜や、念仏や懺悔といった修行など、それら諸種の善行の根本は、禅定にこそある。心が散逸した状態ではどんな行も虚仮である。心が寂静して初めて行は行になる。心の寂静、たった一度でもそのような禅定に入ったならば、それまでの愚痴の世界の罪障も一気に消え失せよう。このとき一体、六悪道などどこにあろうものか。浄土は今ここに荘厳す。

・辱なくも此の法を、一たび耳にふるる時、讃歎随喜する人は、福を得ること限りなし。いわんや自ら回向して、直に自性を証すれば、自性即ち無性にて、すでに戯論を離れたり。

 畏れ多くも大乗の教法を聞き、その調べの有り難さに喜び止まぬなら、得る福の大きさや、計り難かろう。いやあるいは見方を変えれば、聞法の讃歎随喜こそ悟りの第一階梯であろう。聞法の徳さえ計り難いというのに、自ら骨折り坐禅して禅定を鍛え、自身の本性が無性たることを直接に覚証するとき、すでに分別に終始した世界からは遠く離れ、只々遊戯三昧。あれこれ思うな、只只管に、坐禅せよ、坐禅せよ、ああ素晴らしい哉、三昧底。

・因果一如の門ひらけ、無二無三の道直し。無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず。無念の念を念として、謡うも舞うも法の声。

 因あり果あり。これが理法である。けれども自分たちの頭で捉えた世界に拘泥していては駄目だ。因果一如と化す大生命の門戸を、さあ今開くのだ。開け方は只々禅定を鍛えるだけだ。これ以外に第二の道や第三の道など無い。ただ唯一の道は是、仏道だ。この道を歩めよ、歩め。本来、形無し。この形無きを根本に据えて世界を見聞すれば、どこに行こうが我が郷里。行くも帰るもあるもんか。一日も仏国を離れず、去るとこ来るとこ皆仏国、仏国に出て仏国に帰りゃあ、行くも帰るも余所なわけがない。自我の念無き心を我が心とすれば、歌う声も舞う姿も仏法の特大コーラス、響かせ響かせ、法の大音声。

・三昧無礙の空ひろく。四智円明の月さえん。

 見る我、聞く我、思う我、全てに全てを擲ち捨てて、虚空に映るは我が仏心。虚空と仏心、隔てるものなく、三昧心是空、空の広さが心の広さ。
 見る我、聞く我、思う我、全てに全てを擲ち捨てて、望月をも照らす我が仏智。仏智円満の無量光、照らせよ照らせよ、尽十方、冴える月に仏智は亘る。

・此の時何をか求むべき、寂滅現前するゆえに。当処即ち蓮華国。此の身即ち仏なり。

 大空是心、望月是智。無量寿の優しさに包まれて、これ以上なにを求めよう。猛る我が心身を慰めに慰め、無量寿現前、空現前。慈悲の働きに身を任せ、気付けば此処が蓮華国、気付けば此の身が仏の身。

<『白隠禅師坐禅和讃』考>
 『白隠禅師坐禅和讃』(以下『和讃』と略す)についての私釈を上で示してきた。体験上からして大過ないと言い切る自信はある。ここからは『和讃』と少し距離を取り、『和讃』について考えたい
 『和讃』に説かれていたことの大体は、私釈からも容易に分かろう。そこで説かれていたことは、衆生がその本来の面目において仏であって、現世がその本来の面目において仏国であるということ、それに気付く無二の法門が禅であるということである。この内容を法悦の頂点から、美しい韻律を以て歌うのが、『和讃』である。迷いの境涯から悟りの境涯への没入と、しかも迷いと悟りが不離の両面たることを示す『和讃』は大解脱の法門の要諦を簡潔に示し、臨済諸派で重視されるのも頷ける。
 ところで、夜坐禅の際、『白隠禅師坐禅和讃』の次に、「四弘誓願文」を読む。このことが含む意味は非常に大きい。思うに『和讃』と「四弘誓願文」は個々別々に偶々そのように置かれたのではない。あるいは歴史上偶々であったとしても、そこに含まれる宗教的求道上の象徴的意味は見逃し難い。『和讃』は解脱の法門を説き、「四弘誓願文」は慈悲の法門を説く。解脱と慈悲、あるいは往相と還相と言っても良いだろう、これらは大乗仏教の両輪である。自らの苦しみから出発した宗教的求道は無我の解脱門を透過するに至り、一先ずの完成を見る。けれども、無我は本来我無しの教、我が無いのだから完成も無い。完成したと思うや否や自閉的連関に回収される。我無しから見た真実相、それは大生命の大躍動。そんな中、溺れる者の声がする、溺れる者の声がする、尽十方一切の衆生、助けよ助けよと泣き叫ぶ。苦があって願あり。ここから始まる菩薩道。この菩薩の道を自分の中に見つけること、これが自らの苦しみから出発したはずの求道の一先ずの終わりであって、為人度生という真実の求道の始まりである。衆生無辺であるのだから道無窮。道無窮であるが、無窮がこれまた嬉しい、どこまでも。五百生もこれまた進んで経歴せん。
 『和讃』に示されるのは入口のみで、その先は何も示されない。ここに片手落ちとの批評を加えることもできるだろうが、いま私は、白隠禅師が後達をして自ら証しするのを待ったのだろうと確信している。この確信に照らせば、ここで私が書いていることは禅師の足を引っ張ることになるのではと言われそうだが、それは当たるまい。当たるまいと言い切る理由、果たして分かろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?