観念ではなく実践する人生

フランス・パリのルーブル博物館とオルセー美術館には美しいバレリーナの絵を多く描いた印象派画家であるエドガー・ドガ(Edgar De Gas)の作品が多数展示されている。ところが画家だったドガは豊かな霊感を持っていて、詩人としての潜在力も非常に高かった。しかしドガの詩は現在一つも残っていない。なぜだろうか?

ある日、ドガは友人の詩人であるステファン・マラルメ(Stephane Mallarme)に一つの悩みを訴えた。自分の頭の中にあらゆる詩想が浮かぶけれど、それを言葉で表現することができないというものだった。するとマラルメは次のような言葉でドガの問題点を指摘した。

「ドガ!詩を作るのは詩想ではない。実際の単語だよ」

1970年アメリカのプリンストン神学校で、ある教授は長老教の牧師を夢見る神学生たちに一つの課題を出した。それは遠く離れた講義室に急いで行って、聖書に出てくる「善良なサマリア人に関する寓話」を説教するというものだった。

善良なサマリア人に関する寓話(ルカによる福音書10章25~37節)はこうだ。ある一人の人が道端で強盗にすべてを奪われて死の危機に瀕している。しかし道を行く祭祀長とレビ人は、彼を見たけれど知らないふりをして通り過ぎたけれど、彼らが異教徒扱いをしていたサマリア人は、その人の傷の手当をしてあげ命を助ける。この比喩を通してイエスは真の隣人愛と実践について語る。

情熱溢れる若い神学生らは、教授の課題を受けてどうすれば善良なサマリア人の教訓をきちんと説明できるか考え、急いで講義室に向かって行った。ところがその教授は、神学生らが通り過ぎる途中に、みすぼらしい身なりのある人を配置した。この人は頭を垂れて目を閉じたまま講義室のドアの前に力なくうずくまっていた。

しかし神学生は皆、絶えず咳をしてうめき声を出しているその人を通り過ぎてしまった。その人を助けるどころか、足を止めて何か問題があるか尋ねもしなかった。

この二つの話に私たちの生活を映してみよう。もしかしてエドガー・ドガのように、ただ考えてばかりで、実践していないのではないか?あるいは考えの種は多いけれど、それを発芽させる大変な作業を始めていないのではないか?あるいはプリンストン神学生たちのように、実践を観念的に考えるだけで、実際に実践しない人生を生きているのではないか?

写真に興味がある人なら誰でも一度は聞いたことがある世界的な写真作家ロバート・カッパー(Robert Capa)は、このような言葉を残した。

「あなたの写真が良くないのならば、それは被写体に十分に近づいていないからだ」

銃の代わりにカメラを持って多くの戦争の最前線で直接実践したから、残すことができた名言だろう。私たちも観念的な実践ではなく、実際に実践することで、自分自身の人生をより鮮明で良い作品として作ることを目指したい。

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