「Gothic Of It All 〜アメリカン・ゴシック・ソングス・アンド・ムービーズ〜」ざっくりまとめノート②

 なんとなく続けてもオッケーっぽい雰囲気だったので、これの続きを書きました。前回に引き続き、登壇の御三方の発言はあまり区別しないでまとめています。動画は8/30(土)まで見られるらしいので、未試聴の方はぜひお早目に。このまとめはいわば講義録みたいなもんなので、要約から零れ落ちた部分こそ面白かったりします。


AFTER HOURS|Vol.4「Gothic Of It All 〜アメリカン・ゴシック・ソングス・アンド・ムービーズ〜」メモ②

アメリカのトラッドとマーダーバラッド

 noirseさんが例としてアメリカンニューシネマを代表する映画『脱出』の話を。これはアパラチア山脈のダムで沈む予定の村に遊びに都会人が、地元人と衝突してひどい目に遭う話。オープニングで、都会人のひとりのフォークかぶれの青年が、エリック・ワイゼンバーグの有名なブルーグラスの曲を弾き、それを聴いた通りがかりの地元の、弱視らしいアルビノの少年が演奏に混ざってくる場面がある。この少年の病に、山間のコミュニティの血の濃さがほのめかされている。(動画はこちら

 トラッドの曲として『Pretty Polly』という曲を最近のバンドが演奏したプロモが紹介される。いなもとさん曰く「プロモがすごくいいので」。noirseさん曰く「ギリギリダサいですね……ギリギリじゃない、かなりだ」。コテコテなプロモに見入ってニヤニヤする一同。

 アパラチアンバラッドのようなアメリカのトラッドの多くは、イギリスからの移民が自分のところに伝わっていたのを持ち込んだものだが、同じ民謡であっても閉ざされた山中のコミュニティで歌い継がれるごとに差が出てくる。それが1920年代に再発見されてレコードに録音され始め、第二次大戦後にはハリー・スミスという人が「Anthology of American Folk」という大変重要なアンソロジーをリリース。かのボブ・ディランもこのアンソロジーをあまりに聴きたかったがために友人のを借りパクし、ばれてボコられて泣いて返した、なんてことがあったらしいw。ベックやカート・コバーンもこれを持っていたそうな。

 内容は「大体女の人が殺されたりするような話」w。マーダー・バラッドという、殺人がテーマのトラッドの系統もある。ニック・ケイヴがそれを歌った『Murder Ballads』というアルバムを作っていたりもする。マーダーバラッドには二種類あって、ひとつは女の人がなんかのきっかけで殺される、みたいなトラッドとしてのマーダーバラッド。もうひとつは、20年代ごろに実際に起きた事件、事故をすぐ曲にしたニュース的なもの。例えばローソンファミリーの殺人事件というものが歌になっている。これはクリスマス前にある家族がめかしこんで集合写真を撮りに行き、帰ったところでいきなり父親が発狂して家族全員皆殺し、というもので、未だに動機などはわかっていない。

 こんな具合に、マーダーバラッドは聴いていると唐突に、脈絡なく人を殺す話が多い。「この娘と婚約してて俺たち幸せなんだ」と歌った直後にいきなり棒で殴り殺して川に捨てた、みたいな。最終的にはとっ捕まって反省する、というパターンになるが、教訓的な面は感じられない。殺した後家に帰って、服についた返り血を母親に「その血なんなの」と聞かれて「鼻血だよ」と言い訳する部分とかは歌詞にしてるのにw。

怖いようで怖くない少し怖いアメリカ南部

 文化衝突の流れで、スプラッターの元祖であるハーシェル・ゴードン・ルイスの『二千人の狂人』という映画が紹介される。まずはその予告を。

 いなもとさん「これはいい映画ですよー、最高です!」。
 noirseさん「ギャグですよこれ」。
「一行であらすじ言えるんですけど、あらすじ言うとネタバレになっちゃいますよね」「別にいいんじゃないですかこれは」的なやり取りに基づいてこちらも堂々とネタバレしますが、旅行中の都会の北部の若者が祭りをやっている南部の街に立ち寄り、地元の住民に歓迎されるが実は住民は南北戦争で虐殺された人の亡霊で、にっくき北のヤンキーである若者たちに嬉々として襲いかかる、という話。あんなにみんな明るいのに幽霊w。

 北部のヤンキーが南部に来てひどい目に遭う、という構図は『悪魔のいけにえ』『脱出』と同じ。アメリカンゴシック映画のひとつの定型。
 南部は奴隷制を維持し続けたいと言い続けた地域だが、1865年に南北戦争に負けてその伝統的な姿が滅ぶ。それをコンプレックスに思った南部の人間から見るとフォークナーのようなものが出てくる。1964年には公民権法が制定されて大っぴらに黒人を差別できなくなったわけだが、その結果それまで黒人を差別していた白人たちを、先進的な白人が差別する、という流れが生まれる。同じ国の同じ白人であるけども、文化に取り残された南部の人たちが恐怖の対象となる。

 これは前述のC・B・ブラウンが『エドガー・ハントリー』の中でインディアンを恐怖の対象としていたことと全く同じ。64年は奇しくも『二千人の狂人』の公開年でもある。

 インディアンといい南部と言い、自国の歴史の中の汚点である、ととらえている側面があるため、アメリカンゴシックは複雑になりやすい。保守とリベラル・南部と北部・黒人と白人・都会の白人と田舎の白人など、ふたつの文化がぶつかり合う摩擦そのものがゴシック性を生む。そこにダークさが入っていればゴシックという人もあるが、自国の「恥」の歴史があることによってアメリカンゴシックが成り立ちやすい。過去がよみがえってくる、という側面も。

 南部はゴシック的な話を作りやすい、エキゾ・サウス。一方、都市型にするとノワールっぽくなるパターンが多いのではないか。田舎の人が都会に行ってひどい目に遭うというのはちょっとゴシックとは別物のようなw。でも『ローズマリーの赤ちゃん』は都市の話だがゴシックになっている。

『アメリカン・ゴシック』というカリカチュア

 グラント・ウッドの『アメリカン・ゴシック』(1930)という絵画に描かれているアメリカ人は、入植時の典型的ピューリタン。
 描かれたときから見ても古色蒼然とした姿。アメリカを築いてきた人たちであり、イメージされるアメリカ人の規範的な姿はこういうものであった。これが1930年になって『アメリカン・ゴシック』となるのは、過去がすでに自分たちの理解の及ばない異文化になっているから。アメリカが多様化していく中で失われていったものであり、ほとんどカリカチュアの域。

『二千人の狂人』も『悪魔のいけにえ』もそのカリカチュアといえるが、外部の人たちをいけにえに捧げることでその図式をわかりやすくしている。『イージー・ライダー』も、ヒッピーやロックなどを持ち込んだ形で同様のことをやっている。ジム・ジャームッシュもゴシック感覚が強い人で、『ダウン・バイ・ロー』『デッドマン』もアメゴシ的。これまでのアメリカ映画と違うスタイルを打ち出したけれどもやっていることは変わらない。そういうものは定期的に出てくる。最近だとコーエン兄弟もそういうところにこだわる監督。
 ホラーだとより定型化していて、『悪魔のいけにえ』から『悪魔の調教師』『ヒルズ・ハブ・アイズ』など、アメリカの僻地にわけわからんのがいて襲われる、という。
 いなもとさんイチオシの『悪魔の調教師』はこれまた強烈。アメリカの僻地で、狂った父親と被曝して奇形化(!)した息子が女をさらって調教するというシロモノ。

 予告動画を見ながらテンションダダ上がりのいなもとさん「すみませんねなんか、こんなもの見せちゃって……」w。
『二千人の狂人』『悪魔のいけにえ』と同じく、これも襲ってる側がめちゃめちゃ楽しそう。父親が女の人の服にペンキでバツを塗る場面でnoirseさん「ここちょっと緋文字ですね」w。
 見てるとだんだん殺してる方に共感してくる。noirseさん「『悪魔のいけにえ』もラスト、チェーンソー男がブルンブルンチェーンソーを振り回してるシーンで泣くんですよね」。
『悪魔のいけにえ』は襲われる方が北部のチャラチャラした若者という定型をなぞっているが、襲う方も父・祖父母・息子の家族で、食事の際はみんなテーブルについて祈りを捧げるという、ピューリタン的にある意味まっとうな一家だったりする

オルタナ・カントリー

 アメリカも多様化しているが、「アメリカらしさ」は残っている。例えばカントリー。日常的に聴く人は少なくなってきているが、日本の演歌は聴かない人にも「日本的」と思われるように、アメリカらしいものとして認識される。これを聴いた際に自分の中に起こる過去との摩擦、これを増幅するとゴシック化

 例えば20年代にコミュニティの音楽家が学者たちによって再発見されたケースでは、音楽家たちは自分たち(の音楽)をゴシックとは思っていない。これをゴシックととらえるのは発見した側の学者たちの視点。

 同様に、オルタナ・カントリーはパンクをやっていた連中がカントリーを再発見したもの。例えば16Horsepowerなどといったバンドがあるが、こういう面々が出るフェスには、普通のカントリーをすっ飛ばしてブルーグラスの大家であるラルフ・スタンリーが出ていたり、そんな大御所がパンクスみたいな兄ちゃんたちを大盛り上がりさせていたりする。

 ラルフ・スタンリーはスタンリー・ブラザーズというブルーグラスバンドで知られるが、もともとゴスペルをやっていた人。ゴスペルといっても、『天使にラブソングを……』みたいなソウル方面のやつばかりではなく、ブルーグラスもその中に含まれるものがある。神の実在を説くために悪魔の事を説く、という部分もゴスペルとゴシックの接点としてあるか。

 アメゴシ的なオルタナ・カントリーの代表的バンドは、前述の16HorsepowerSlim Cessna's Auto Clubが二大巨頭。日本でも放映される予定の米ドラマ『True Detective』の主題歌を歌うHandsome Familyなども有名。Handsome Familyは前述の絵画『アメリカン・ゴシック』のコスプレをしている写真もあるw。

  映画のおすすめは『ロング・アイド・ジーザスを探して』。ミュージシャンのジム・ホワイトが南部を旅する作品で、数々のミュージシャンも登場するうえ、ロードムービー仕立てなので南部の風景が堪能できる。

ゴシックとしてのSF

 noirseさんが、「SFもゴシックとして捉えることができる」という話を。アメリカン・ゴシックと親和性の高い西部劇はフロンティアを拡大していく物語だが、フロンティアが開拓されつくしたら次に向かうのはどこか? 宇宙になる。『2001年宇宙の旅』なんかは、境界を越えて宇宙に出てエイリアンと出会い自分を見つめなおす話。

 境界線を越えること。ゴシック小説は作者か登場人物がこれを試みる。 元々のゴシック小説は最終的に理性の光によって神秘的な出来事が解決されてああ安心、という18世紀啓蒙主義的なものだった。一度「向こう」へ行って戻ってくる。これが越えたままで戻ってこられないとホラーが生まれる。 開拓されつくした後の宙ぶらりんの状態になるまでは、ここから先は未開拓、とはっきりわかっていた。開拓地と未開拓のエリアの境界線がはっきりしていて、つまりこのラインを越えたら危ない、とわかっていた。フロンティアが消えてそのラインが失われることで、アメリカのゴシックは国の内部へと向かっていく?

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 ここから先はメモを取る集中力が切れw、動画のアーカイブも見直す前に閲覧期限を過ぎてしまったので、とりあえずここまでです。

 このほかにも日本のテキサスはどこか、ゴシック評論集『城とめまい』(国書刊行会)に載っていたピンチョンやバースをゴシックとして読む試みなど、色々面白い話がありました。

 終演後いなもとさんと話をしましたらば、今後何かしらの形でゴシックについてまとめたものを出せれば、という話もチラッとされていたので、みなさんテカテカしながら待ちましょう。

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