見出し画像

写真における「正しさ」とは。『写真にする理由 鷺坂隆の大人の写真講座』刊行に寄せて

写真家・鷺坂隆の写真に向き合う姿勢は、誤解を恐れずひと言でいうと、一本の「正しさ」で貫かれている。私はその「正しさ」に惹かれてこの書籍を刊行した。

一般的に芸術に対して「正しい」という表現は使わないかもしれない。そこにはなにか優等生めいた印象が付きまとうからだろう。芸術には、既成の概念(イメージ)を打ち壊す側面があるのはもっともだが、「正しさ」を極めたら、もし「正しさ」を突き抜けたら、それはそれで「正しさ」の先の、新しい世界が垣間見れれるのではないだろうか。


鷺坂の写真は端正である。
もちろんそれは美しい。しかし、私は時々、彼の写真を見て奇妙な気分になることがある。これは本当に端正で美しいだけの作品なんだろうか、と。

そんな写真に対して極めて正しい鷺坂の作品については、以前の記事にも書いた。そして思った。この「正しさ」を講座にしたらどうなるのだろうと。
それはちょっとした、いたずら心だったのかもしれない。
私は毎週、彼に課題を提示して、回答をもらった。
その回答をまとめたものが本書である。

『写真にする理由 鷺坂隆の大人の写真講座』(ペーパーバック)

本書は主に写真初心者及び中級者向けの内容だ。
凝った技術やテクニックは掲載されていない。
鷺坂の「正しさ」を表現するにはそれが適切だと考えた。

普通に楽しんでほしい。そういう目的で本書は編まれた。
写真との向き合い方に悩む写真愛好家に親切かつ適切なアドバイスをしてくれていると思う。
巻末に掲載した写真家・恩田義則氏との対談も見ものだ。
それ以上を知りたい方は彼のグループ展『ひびき』などをご覧いただきたい。

最後になるが、本書の冒頭の一部をここに転載したい。ぜひ何かを感じていただければ刊行した甲斐がある。

【抜粋】

私たちはなぜ写真を撮るのでしょうか。
その答えは、人それぞれです。かつて人は風景や人物などの対象物の美しさを記録に留めたいとシャッターを切りました。先人たちが収めた写真は、歴史を超えて私たちにその感動を伝えてくれます。
しかし最近では、先人たちの意思とはかけ離れた目的で映像を切り取る人々も現れています。あらかじめ話題づくりを前提に、刺激的な素材や構図を選択し、コントロールされた映像をSNSなどに拡散したりもします。写真の使い道はとても多様化しています。でも私にとって写真とは先人たちが宿した欲望とまったく変わることがありません。美しいものに出会って、それを写真として残す。どうやらそのシンプルな作業が私に似合っているようです。

さて、話を戻しましょう。
私たちはなぜ写真を撮るのでしょうか。
用途がさまざまであっても私たちは誰しも美しいものに感動します。そして美しいものをカメラで捉えようとします。
では、写真にとって美しいものとは何でしょうか。
月並みな答えかもしれませんが、私にとって、美しさとは「調和」です。
1枚の写真の中に1つの世界観があり、その世界観がきれいに整っていること。
これを「調和」と呼ぶことにしましょう。
もし、あなたが撮った1枚の写真の中に、いくつもの世界観が混在していたら、見る人たちはどう感じるでしょか。そこには混乱しかありません。
ただし古典的な調和だけが調和ではありません。ノイズや不協和音が飛び交う世界観の中にも調和が存在します。
つまり、1枚の写真の中に異質なマテリアルやモチーフが混在しても良いのです。大切なのはそこにクリアな世界観が存在するかどうかです。
対立する価値観が混在していても、それが対立という1つの世界観となって際立っていれば、人はそこに感動します。
雑踏の猥雑な賑わい、打ち捨てられたゴミ捨て場のカオス、それらですら1つの世界観として成立し、そこには調和が備わっています。
もしあなたが満足いく写真を撮ろうと志すなら、あなたは自分の世界観を忠実にカメラに残すことからはじめてはいかがでしょうか。情報が錯綜するこの広大な世界の中から、シンプルなものであろうと複雑なものであろうと、そこにひとつの「調和」を見出し、それを丁寧にカメラに収める。「調和」のある写真は、テーマが何であるにしろかならずそこにあなた自身の「美しさ」が表現されていると思います。
 
写真とは本来とても個人的な体験です。あなたの中の「調和」が見つかれば、あなたの心も豊かに満たされるはずです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?