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男女の争いがなぜ起きるのか、男女の愛の違いとは何か、そしてなぜ『チー牛』が産まれるのか #虎note

こんにちは、虎( https://twitter.com/tiger_stlv )です。

男女の争いって、消えないですよね。

古今東西、人類が生まれてから男女の差異とその諍いが消えたことはないのではないかと思います。というか人類の争いの最小単位は男女なのではないでしょうか?

人間はより大きな目的を持った時に共同体として機能しますが、幼少期は男は男、女は女で共同体を作りがちです。それはそれぞれの遊びに於いての目的が男女では違うため、共同体に所属するメリットがその時点では存在しないからです。

ですが、年齢を重ねるうちに我々の人生の目的は多様化していきます。学業や部活動で良い成績を残したい、仕事で素晴らしい業績を挙げたい、幸せな家庭を築きたい、子供を育て上げたい…そういう目的の中で我々は異性とも共同体を形成し、目的に向かった活動をしていくようになっていきます。

そして、その中で争いが生まれます。

その原因は『個』です。

共同体である以上、他者が存在し、その他者は自分とは違う価値観を持つので、その価値観がすれ違った時に争いが起きます。そして共同体の個が持つ価値観の違いが多様になればなるほど、争いは起きやすくなります。

そして、我々が社会でもっとも頻繁に遭遇するのは『同性から同性への攻撃』と『異性から異性への攻撃』でないでしょうか。

今日はその中の『異性から異性への攻撃』が何故起こるのか、つまり男女というくくりについて、表題のように男女の違いから書いていこうと思います。

そして、そのメカニズムが『チー牛』と呼ばれる男性や結婚できない女性を作っているのですが、それが何故かについても言及していきます。

それではいきましょう。

はじめに

本題に入る前に、この記事を読んで頂くにあたっていくつかの前置きをさせてください。少し長いし説教くさいですが、あなたの人生に必ずお役に立てる内容だと思いますので読んでおいてください。

また、後から本編にも出てくる内容ですので、流さないで読んでくださいね。

まずあなたも含めてこの世の中の多くの人が「自然と『相手も自分の価値観の延長線上で生きていると考えている』」ということに気付いてください。

これは人間の機能であり、何か悪いことではないのですが、この前提、そして何よりこの前提に気付いていないことが争いを生んでいます。

SNSなどでは「なんで男(女)はこうなんだ!」という意見を散見しますが、それこそが異性を自分と同じ延長線上で考えている証拠です。これに気を付けてくださいね。

我々は同じ生物ではありません。同じ科目の生物かも知れませんし、同じ国家に生まれて同じ文化を共有しているかも知れませんが、個々の価値観は違います。家族、同性の近しい友人ですら、全く一緒ではありません。全く一緒だったら喧嘩しませんし。

ということは、異性に異性の文化的な価値観を理解してもらおうというのは、蟻に言葉を理解してもらおうというくらい無理な話です。身体の作りが違ったら働きも違うのは自明のことです。四足歩行の生物の方が速く走れるのは想像に難くないです。それと同じように、我々1人1人も身体の作りも脳みその作りも違いますよね。ですから、同質性を求めるのがどだい無理な話なはずなんです。

ですから、この前提を置き去りにして話しても「自分の価値観を理解しろ!」と言っても蟻が人間にルールを押し付けてきているのと何ら変わらないわけです。蟻と同じ生活、したいですか?したくないですよね。

これはあくまでたとえ話なので、我々は蟻じゃない!みたいな話をしたいんじゃなくて、それくらい無理な話ですよっていうことを伝えたいです。現に、それが可能だったら既に我々は理解し合い、歩み寄っているはずなんです。ですが、世の中ではそうではないですよね。つまり「そもそも分かり合うのが無理」という前提を置き去りにして「わかるはず(、何故なら自分が正しいから)」という、間違ったことを正しいと思っているところから始めてるから全部がおかしくなるんです。

どんなことも、争うときはお互い自分が100%正しいと思ってますよ。それで型がつかないから刑法なり司法なり、そういう法というものがあって、それで納得いかなくてもケリをつけますよね。喧嘩両成敗って言いますが、第三者から見たらいっつも争いなんてどっちもどっちです。

でも自分が争うときは100%自分が正しいと信じてやまないですよね。

みんなそう思ってます。日本人口1億人がそう思ってます。世界人口80億人がそう思ってます。

80億人全員が「自分が正しい!」って思って争ってます。そんなものにどれだけの価値がありますか?

正しさに価値なんてないんです。自分だけが思っていればいいものを、他人にも求めるのが根本的な間違い。自分が正しいと思えば思うほど自分が間違っているということだってくらいに思っておいた方がいいのではないでしょうか。

また、異性のそういった話になった時に「それは人間として違う」「ほかの人もそう言ってる」などという意見が出てくることがよくあるのですが、それを言った時にいくら相手が理解しなかったら、それは人間としての話ではなく、あなた、もしくはあなたの性としての価値観です。いくら他人が言おうとそれはあなたの意見です。

自分の意見を言うときに「みんな」とか「ほかの人も」って言うのをやめておきましょうね。卑怯だと思われます(し、卑怯です)。自分の正しさを主張するときに、他人や権威を使うと議論が進みません。議論をするのが目的じゃない人、つまり自分の正しさを突き通すのが目的の人はそれをやっていていいですが、それをやるというのはつまり前述の通り「自分の正しさを突き通すために卑怯なことをする=それだけ価値のないものにしがみつく」行為なので、忘れないように。

これは同性、家族、兄弟、パートナー、すべてにおいて言える話です。基本的にはそういう「正しさ」をいかに横に置けるかが重要です。

いかに「自分が正しい!」という感覚や考えの下に普段生きているか、是非日常の中でも意識してみてください。

さて本題とはズレましたが、男女、または他人との違いを受け入れるために非常に重要な考え方ですので、この部分だけでも大事に持って帰ってください。

男女の根本的な違い

さて、結論から書いていきます。

争いの根本の原因となる、男女の違いの根本について。

女性の愛は同化、庇護であり、男性の愛は分離、自立である

ということです。これ以外のことはおそらくないでしょう。

女性はいかに同質的であるか。
例)一緒に何かしたい、一緒にいたい、同じものを持ちたい、同じものを着たい、同じ気持ちを持っていて欲しい

男性はいかに異質的であるか。
例)自由でありたい、何かを研究/創造したい、崇高な目的に向かって生きたい、独創的でありたい

これらを求めています。男女それぞれ、異性のその性質を多少なりとも持ちますし、また異性の性質を強く持つ人もいます。ですが、基本的に多数の人は自分の性を追究していくとこの2つに分かれていくはずです。
※女性の研究者や職人のような方、男性の主夫のような方は外れ値として認識していますのでここでは論じません。またその在り方の善悪についても論じません。

表面的、社会的には女性でも異質性を求める人、男性でも同質性を求める人は沢山いると思います。ですが、他者との関係性が親子など近いレベルになった時にその本質が出てくるのではないでしょうか。

基本的に女性は親しくなると過干渉、過保護になっていきます。男性は放任主義になります。これは子供の育て方にも出てきます。基本的に世話を焼きたがるのは母親、放っておいて細かく言わないようにしたがるのが父親です。

また、放っておいて欲しいという女性は男性的、いっつもベタベタしたがる男性は女性的と言えるでしょう。どちらも全体から見ると少数派のはずです。
※例外の人は例外の人と付き合うため、この記事を見ている人の中には、こういった少数派の人しか観測したことがない人もいると思いますが、そういう場合はまた違う世界のお話として読んでください。

女性は幼少期にはおままごとをやり、お姫様ごっこをする傾向があります。また会話においては共感や理解を求めます。

男性は幼少期にはボール遊び、探検や虫探しなどをする傾向があります。
また会話においては目的や発見を求めます。

そして前述の「私が正しい」というフレーズを覚えてますでしょうか?
これを同質性と混ぜないように注意してください。

「男だって同質性を求めているから、違う個体を見た時の反応としていじめが起きるんじゃないか」という意見が入ってくると思うのですが、これは少し違うものだと思ってください。

いじめに見る男女の性差

それは、いじめの性質に現れます。

女性のいじめは「仲間外れ」「嫌がらせ」「無視」といった同質性からの排除なのですが、男性のいじめには直接的な暴力、攻撃なども含まれます。

これは男性が「分離」を正義としているから起こることと私は考えています。

どういうことか?つまり分離がそもそも正義なので、相手を正々堂々と分離させてよく、またいじめることにより自分も分離していいと考えています。実際いじめるときにはそこまで考えていないと思ういますし、いじめられる側になったらすごく嫌な気持ちになると思いますが、これから説明する女性との振る舞いの違いを見れば明らかです。

ですが女性にとって分離はそもそも非正義のため「分離させている」ということそのものを隠そうとします。なので、誰かが目立ってやっているようにはせず、「みんな」でそれを行い(ここでも分離しないようにしていますね)、またなるべく「外側の人間に分離させているように気付かせない」ように注意を払い、同属の誰にも責任が行かないようにします。これが女性のいじめが陰湿に見える、と言える所以ですね。

女性にとって「分離」とは死の宣告にも等しい所業なので、そんなひどいことをしている人間だと思われたくないし、思いたくないという無意識がここにあります。実際の行動がどれだけひどくても、それを自分のせいだとは思いたくないのが人間であり、人間の弱さです。

これは陰湿というより「1人1人の個体が生贄以外の相手をいかに分離させないか(=させると今度自分の番が回ってきた時に標的になって分離させられる)」という防衛本能からです。

男性のいじめが「徹底的な直接的攻撃」、つまり対象を攻撃し、叩くことそのものが目的であることに対して、女性のいじめが「徹底的な分離」、つまり対象を分離させ、集団から排除することが目的であること、ここに性差が表れていると思います。

男性の仲間外れは攻撃の為、叩くためです。
女性の仲間外れは排除の為、仲間に入れないためです。

どちらも入り混じっているので同じように見えますが、よくよく観察していくと目的が違うことに気付けるはずです。

男女の性差以前に我々の脳に備わっているメカニズム

では、何故いじめをするのか?

それが「自分は正しい!」という反応です。常に我々はこの前提で生きているため、意識しませんが常にこのメカニズムに支配されています。

この反応に囚われると、ざっくり言うと人は獣になります。

執拗に人を攻撃したり、ヒステリーを起こしたり、誰かを晒し物にしたり、要はいじめている人がいじめているときの在り方になります。

他にも「わからない」と責任を取らない在り方になってみたり、必要以上に泣いてみたり、悲しんでみたり、我関せずになってみたり、反応は様々です。人によって持つ反応はそれぞれです。

その中で、攻撃性の反応を持つ人がいじめっ子になります。

この反応は自分が持っている価値観に反したことが起きた時に起こりますが、その反応が何故起きるかは今日は解説しないので、興味がある人は下記を参照してください。

ざっくり言うと「自分がこうするべきだと思っているものと反したものに遭遇した時に起こるもの」です。

男らしくあるべきだと思っている人は男らしくない人を見た時に何らかの反応をしますし、身を綺麗に保つべきだと思っている人も、そうでない人を見た時に何らかの反応をします。

いじめのメカニズムなんてほとんどこれです。

で、「べき」というのは過去に否定された自分なので、過去に自分が否定されたようにその対象を否定します。男らしくないと言われて親に叩かれた人は同級生を叩くでしょう。可愛くないと言われて親に嫌がらせをされた人は同級生にそれをするでしょう。

これだけです。

幼少期にされて嫌だったことを他人にやってるだけです。

そして人はそれをしている時、その時の知能指数まで落ちるので適切な対処をしません。モラハラ、パワハラまで発展します。

3歳の頃にそうしつけられた人は、自分のポリシーに反する人を見かけた時に3歳まで知能指数が落ちるので、それがどんなにワークしないことでも繰り返してしまいます。

いじめにしろ、逃げ癖にしろ、わからない癖にしろ、泣き癖にしろ、全部そうです。

男女の性差とこれを混ぜないために長めに解説しましたが、これの上に男女の性差がのっかっていると考えてみてください。

我々はそもそも自分が正しい!という反応を持つ

それに反した個体を何かしらの方法で排除、攻撃したくなる

その反応はそれぞれの価値観から発生する

個別具体の反応はあるものの、女性は同化の原理、男性は分離の原理によって行動する

というように。

愛情が呪いになる ~チー牛生産機としての母~

ここからが本題です。

タイトルの通り、この男女の違いが呪いになっているパターンがかなりあります。

タイトルに早速書いたのですが、何故チー牛と呼ばれる男性が産まれるのか、から考えると、この問題の考察に役立ちます。

※チー牛とは『すき家でチーズ牛丼を頼んでいそうな覇気のない若年層男性』のネットスラングで、ネガティブな意味に使われるものです。詳しくは下記より。

何故ここでチー牛の話題を出したかというと、私はこの『チー牛』という存在を社会現象、および学校、家庭教育の未発達によるものと重く考えている側面があるからです。

下記の記事には

18~19歳では男女とも交際経験はほぼ半々。 20歳以上の年齢層でも女性で30%前後、男性では40%近くが「交際経験なし」だった。

https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01440/

と書いております。

細かいことは抜きにして、ざっくり日本人の20歳前後の男性4割がチー牛ということです。

これは由々しき問題ではないでしょうか。チー牛が悪いというより、チー牛を量産する環境が揃っていることそのものが問題と、私は考えます。

そして、その環境の大きな要因こそが『同化としての愛』です。

女性は基本的に同化が愛と信じて疑わない(し、そうできている)ので、その価値観のもと、自分の理想像として「自分が正しい!」という反応の下に子を育てます。

同化が前提にあるため、特に「日本人女性としてこう在りなさい」として教育されたことを「私の子供だから」と、子供にそのまま教えます。

これが、男性親がリーダーシップが強くて母親の言いなりにさせていなかったり、祖父祖母と暮らしていれば違うのですが、現代は核家族&父性の不在&何より父親もチー牛だった場合目も当てられません。

男とはかくあるべき、ではなく、同化の原理から「私と同じように育ちなさい」というメッセージを子供は母親から受け取ります。

つまり…

目立たず
品行方正に
周囲に仲間外れにされず
嫌らしいことを考えず
人に迷惑をかけず
後ろ指をさされないように
(悪事をやるならバレないように)

と育てられます。

こういう男性多いですよね、表面上は。

ですが、表面上そう見えたとしても、そのように育てられたとしても、チー牛に見えたとしても、本質はオス。

本質はオスなのにも関わらず、母親と同じようで在ることを求められた結果、人は歪みます。

チー牛はキモい、という意見を散見しますが、それは男性性を抑圧されて、母親と同じように振る舞うことを強制されながらも、完全な去勢はされていないことが原因…つまり、完全に去勢されていないオスの残り香がチー牛のキモさなのです。

それは彼らにはどうしようもなく、また終局的には育てた母親にもどうしようもありません。

何故か?

彼らは母親に抵抗して己で己を育てる術や自活する方法を知らなかった。
母親も、同化以外で子供を育てる術を知らなかった。
その母親を育てた誰かも、強い男性を育てる術を教えることはできなかった。

つまり、誰も何も知らなかったのです。

それしかできなかったのです。反応としての愛、同化によってしか子供を育てられなかったのです。

知らない以上、我々は反応に任せて生きるしかなく、他人に関わるしかありません。

つまり、現代は1億総反応社会です。

その結果が20代4割のチー牛です。

社会現象だとは思いませんか??

ネットスラングとして、皆さんはチー牛を見た時に嘲笑を向けるかも知れませんが、私はこの状態を危機だと思っています。

表面上は女性的な男性が、つまりリーダーシップがある、責任を取れる男性が減っている。

このままだと、自分の子孫の代になった時にもっと生産性の低い社会になっていたり、豊かな生活をできなくなったり、みんなつまらなさそうな顔で生きてたりしないかなぁと思います。

今日はその対策などについては書きませんが、もしこの記事を読む人の中に「チー牛wwww」と笑う人がいたら、どうしたら日本に男らしい人が増えるのか毎日考えて実行して欲しいです。チー牛が増えているのはそうやって嘲笑するだけして、何も責任を取らない人が沢山いるからです。

つまりチー牛がいるのはお前のせいだ、反省しろ。

1億総反応社会と書いたが、無関心と無視も反応だ。お前もその中の一部だ。他人事として考えるな。

という話です。

同化しか愛情表現を知らない母親の息子がいたとしたら、そいつのケツを叩いて男らしくさせるのが我々共同体としてのオスの役目です。それをしない奴はチー牛と同類です。

かつて私も、15歳の頃に引きこもりニートになりました。親のすねかじり中卒ニートという、社会で一番下の身分に堕ちました。その時、私は間違いなくチー牛だったでしょう。

ですがその後、様々な出会いや試練によりいっぱしのオスにして貰いました。

6割の人の中には、私のような人もいるのではないでしょうか?

親以外の、先生だったり先輩だったり、恋人だったりワンナイトをしてくらた相手だったり、そういう他人にオスにして貰った。

そういう人は、日々自分以外の強いオスを作るように生きていってください。

何故か?チー牛は独りではチー牛のままだからです。

彼らは独力ではオスにはなりません。

我々のように、誰かにヤキを入れられてオスになるのです。

父性が家庭に存在しなかったが故に産まれた彼らは、我々の手でしかオスになりません。

現代社会ではどうしようもない

これまで書いたように、色々な要因から父性が家庭に存在せず、また同化としての愛しか表現できない母親が多い、この日本社会では『チー牛はそもそも量産されるもの』という認識を持たなければなりません。

これまで色々書きましたが、チー牛を育てる母親が未熟というわけではありません。母親が独力で子育てをしたら、男性はチー牛になるんです。

なぜならば、そもそも子育ては独りでやるようにはできておらず、祖父や祖母、もしくは地域など、複数のパーソナリティを子供が学んで、その中で情操を発達させるように、人間は設計されているからです。

ですが、現代社会は母親からしかパーソナリティを受け継ぎづらいようにできています。父親は働くことばかり教えられて、どう家庭に関わったらいいかなんて誰からも教わりません。

そうなると母親からの教育がメインになってしまう。一面的な価値観になってしまう。

これは、家庭の問題というより現代社会の1つの病理と言えるでしょう。

母親は、そんな独力で子育てをしなければいけないというプレッシャーの中で我々を育てている。むしろかなり立派と言えるでしょう。

1年前までただの1人の女性だった人が、突然母になり、我々というすぐ死ぬくせにやたらうるさいモンスターを預けられ、責任を持って育てなければならないのです。

別に捨ててもいいのに。

もし6割の方、つまり父性を受け継いだ側にいた人がいたとしたら、それはラッキーなのです。もはや現代社会では当たり前ではない。

多くの男は、現代日本に産まれた以上、愛としての同化という呪いを受ける前提で産まれなければならず、自分の息子をそうしたくなければ、いかに父親がオスを教え、家庭の中でリーダーシップを発揮するか、もしくは母親が分離という愛情表現を覚えていくか、しかないのです。

持論ですが、母親は子供の独り立ちを通じて、独り立ちをするのではないでしょうか。

子供が自分の手を離れた時にこそ、子供が真の才能を発揮した時に「私の手から離れてこそ、この子は輝くのだ」と学習し、強いさみしさを感じながら身を引く。そして、分離した後も子供が自分のことを愛してくれていることを感じ、「同化だけが愛ではない」と独り立ちすることができるのです。

現代社会は20歳を超えても独り暮らしをしない男性もいるので、これは望むべくもないというか、子供自身も父親がいないと母親とベッタリくっついていることを愛だと勘違いしがちなので、母親も独り立ちしない人が増えているのではないか、と思います。

オマケ1:やっとここまで書いたので書けるのですが

前半では外れ値、という表現をしたのですが、ここまで前提を書いてやっと書けることが1つあります。

ずっとベタベタすることを愛だと思っている男性が一定数います。

これは家庭の中で父性がかなり薄く、母親が過保護だった場合に起こります。

チー牛の家庭には父親がいることが多いですが、このタイプは家庭の父親の存在感が薄いか、もしくはシングルマザーに育てられていることが多いように思います。

「分離による自身の能力の発揮」を味わっていない場合、こういう男性が育ちます。

基本的に男性性は過干渉をウザいと思い、放っておいて好きにさせておいて欲しいものですが、それを超えて母親が干渉してきて、かつ自身がそれで得だと判断した場合、主体性を手放します。そういった男性がベタベタ系男子になりがちです。父性を体験していないので、彼らも同化の原理のまま愛情表現をしてしまいます。

これは、根本は先述のチー牛と一緒のメカニズムなのですが、何らかの理由でチー牛ではなく、強いメンヘラになって女性と主従関係を築くことに早い段階で成功した個体がこうなると見ています。
※なので、チー牛もベタベタします。街中で見かけますよね、アキバ系の女の子にやたらベタベタしてるチー牛。あれも一部の犬系男子です。

このタイプの男性は自立心が薄いものの、異性に対しては根本的に支配的で、お金にだらしないことが多いです。お母さんが全部やってくれたので、彼女や妻にもそれを求めます。一言で言うと、ドメンヘラです。
※偏見ですが、水商売の男性に多い印象です。

このタイプの男性が好きな女性もたまにいると思いますが、年単位だと責任を取らない癖に偉そうなので嫌になる女性も多いのではないでしょうか?

実はこのタイプは主体性を手放す段階で物凄いヘイトを女性に持つので、一見ベタベタして優しいように見えますが、依存関係や支配を離脱する時などにその憎しみが噴出します。DVなどに現れることもあります。

これは母親が息子の男性性を否定した結果に起こるものです。誰しも男性はオスとしての目覚めをするのですが、その時の母親の「いかにオスにさせないか」というエネルギーが凄まじく強い時、男性は一時的にそれに支配されますが、その支配の強さだけ反動が形成されるので、出してもいい状況、つまり許可が与えられると凄まじいエネルギーを発揮するのです。

余談ですが、男性を憎んでいる母親がこういう男性を育てがちです。中途半端に男性性を折られるとチー牛になりますが、徹底的に折られると表面上は優しいのですが根本的に強い憎しみを持つ、という状態になります。

付き合う前は優しくて、付き合ったら物凄いヘイトを向けてくるモラハラ男、はこういうパターンが多いですね。

こういうタイプは母親の過保護と同じだけの強権的な男性と関わって、私生活レベルまで叩き直されないと変わりません。本人も変わりたいと思っているか不明ですが。

オマケ2:恋愛のメカニズム

そして「彼氏は父親と似ている人を選び、彼女は母親と似ている人と選ぶ」「こんな人と付き合っても幸せになるわけがないのに、付き合っちゃう」という話がよくあると思いますが、恋愛はこの「最も長く過ごした異性のパターンを自分が学習していて、そのパターンを持つ異性が自分を一番一緒に居て慣れ親しんでいるので、自然とその人が居心地がいいと感じる」からですね。

モラハラな異性とついつい付き合ってしまう人も、表面上優しいのも含めて自分の脳みそが「コイツが一番自分と長く付き合ってくれたし、面倒を見てくれたし、一番慣れ親しんでいる」と判断しているからです。これは無意識の領域なので理性ではどうしようもできません。神経が馬鹿になっちゃってます。

これもチー牛現象と一緒で、本人と素人にはどうしようもないので専門家に相談してください。間違ってもTwitterでカレと幸せになれる云々って書いている素人アカウントの情報をアテにしないように。これは『病理』なので。

機会があればこれはどこかで解説します。

オマケ3:責任を取らない女性とチー牛は同類

もうタイトルで書いてるんですが、父性の不在はチー牛だけではなく「責任を取らない女性」も産み出します。

同化の原理からの愛情だけを貰い、過保護にされ、同時に分離していないので「私の思い通りにしてくれるんでしょう?」という状態を脱していないわけです。

他人だからお前の言うことなんて聞く義理ねーよ?というのが通じないんです。

チー牛もそういう態度を取るのですが、男性社会では「は?お前何言ってんの?」と言われて終わりなので顕在化しません。そんな奴は生きづらくてヒィヒィ言って貧乏になって終わりです。

ですが、女性社会では「そうだよね!わかるー!男子責任取りなさいよ!」というのが成り立つので、30歳になってもそういう女性が消えません。

で、それも「自分は正しい!」という反応によってなされているので、適切な学習をしません。

ですが傍から見たら「アイツやばいよな…」となるので、セッ〇スはできても結婚はできません。

30超えても結婚できない人の8割くらいは、自分は正しいと思っているその裏側のその責任能力の無さですよ。

自分がいくら正しくて、現実が間違ってると言いたくても、残念ながら現実が正解です。

こういう女性が結婚して、子供を産むとどうなると思います?

そう、チー牛か責任を取らない女性が再生産されます。

チー牛が結婚しても一緒ですよ。同じくチー牛か責任を取らない女性の再生産です。そんなもんです。

チー牛と責任を取らない女性が結婚して、それを再生産してるのが現代社会ではないでしょうか。

見た目は違いますが、責任を取らない女性とチー牛の中身は一緒です。皮袋の外側が違うだけです。

だって、同じ製造工程なんだもん。

だいたい現代社会ってこういう循環になってるの、お分かりになりました?個人レベルの話じゃないんです。

ちなみに今回の記事を「責任を取らない女性」に全部置き換えても読めますので、時間のある方はぜひ読んでみてください。

大事なお願い

さて、今回は具体的な解決策を書かずに記事を〆ます。

というのも、個人レベルでは『強いオスと関われ』『強いオスになったら強いオスを育てろ』という抽象度の高い話から、コミュニティに所属するだの筋トレするだの格闘技をやるだの具体的な話までできるのですが、私はこれを社会現象として捉えているので、このレベル感まで行くと解決策が見当たりません。

なので、個人レベルでやれることをやってくださいね、くらいしか言うことがないので、この記事を最後まで読んでくださった方にお願いがあります。

途中、揶揄する書き方をしましたが、チー牛も責任を取らない女性も、そう望んで産まれてきたわけではありません。

誰もがより良く生きたいと願い、強く在りたいと思っているはずですが、その機会に恵まれなかっただけです。

ですから、そういった人を見ても、笑わないでください。

貴方はもしかしたら、運よくそうではなかっただけかもしれません。

そんな貴方が彼らを笑うとしたら、その笑いも無責任です。無責任ということは、自分は彼らと変わらないという表明をするということです。

それに目を向けたら、その人たちが責任を取れるように、少しでいいので手助けしてあげてください。

貴方がもし、チー牛や責任を取らない女性に該当するなら、いつも責任から逃げていないか自問自答してください。そして、責任を取りながら他者にできることが何か考えて、毎日実行してください。

私は発信でたまに辛辣なことを書きますが、それは「そのまま責任を放棄すると痛い目を見るぞ」という警告です。

結びの言葉

同化は繋がりを生み出し、繋がりは愛を生み出します。
分離は責任を生み出し、責任は自立を生み出します。

どちらも大事なものですが、現代社会は分離から自立している人が少ない印象です。

我々はいかに分離していくか、そしてその中で同化のありがたみを実感していくかが重要です。分離しなければ同化していたことに気付きません。

殆どの人は、同化の中に居過ぎていて、それがぬるま湯で居心地がいいからその中にいるだけです。

前述のお願いを通じて、この記事を読んだ人と、その周囲の人が、父性や分離を体感し、いかに自分が愛に包まれている人生を送っていたか実感し、少しでも何か新しい風が吹くことを願っています。

また、今回の記事では具体的な解決策を書くに至らず、心苦しく思います。

今後の発信を通じて、そちらについて言及して参りますので、楽しみに見ていてください。

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お読み頂いてありがとうございました。

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