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嫌味の本質 〜嫌味は人生を損なう〜 #虎note

 本日、このような質問を頂いた。

エアリプとは「聴こえるように嫌味を言う」という心理と同等と思われるのだが、今日はそのことについて考えてみようと思う。

はじめに

まず大前提として、それを気にしてしまう側にも一定の課題があることは忘れないようにしたい。言う側だけが悪いという話になると、それはそれで問題だ。

何か思い当たりがあるのか、隙があるのか、相手にそれを「言わせている」自分がいるのかもしれないと考えたい。要は、被害者は被害者であることに正当性がある。加害した方が悪いという言い分があるし、そのことは社会的にも異論を持たれづらい。

だが、その「異論を持たれづらい」ということこそが正当性を持つに充分すぎる理由でもあり、正当性を持つということは、加害側と同じ立場になってしまうということである。

被害者でこちらが弱くて加害する側がおかしい、アイツこそが間違っている、という前提を持った瞬間に、心理状態や精神構造としては加害者側と同じ抽象度に居てしまうのだ。

どういうことか?つまり被害者として正当性を持つということは、加害者の立場が弱くなった時に「お前が悪い!」と同じだけの攻撃性を持つ可能性があるということだ。

実際に被害者だ!と騒いで他人を加害している人はこの世の中にたくさんいるだろう。

つまり、被害者としての正当性を持つということは立場が変われば必ず加害者側に回るのである。

この文を読む前に、そのことを覚えておいてもらいたい。

そして何より、この文章に書かれたことを加害者を攻撃していい口実にしないでもらいたい。

それくらい、加害者と被害者というのは一歩間違えれば同列の存在なのだ。

飽くまで自分自身の向上の中間地点として、この文章を読んで欲しい。

自分を被害者だと思う人は、加害者と同じ心理を隠しているから反応してしまうのではないかと。加害者だと思う人は、自分の生き方を見つめ直すように。

それでは始めていこう。

まずは自分に目を向けること


だから基本は「それがどうしても気になってしまう自分」にまずは目を向けたい。同じように嫌味を心の中で言ってるけど出しているか出していないかの違いなのか、それとも相手の言っていることがそもそも的を射ているからなのか。

人は何かしらの同質性がないとそのことは気にならない。つまり自分と共鳴している可能性は大いにあることを前提においておきたい。

それを前提に考えなければ、結果的に相手を攻撃することに繋がり、それは自分の嫌いな人間と同じ状態に自分がなってしまう可能性が大きくなる。

その上で考えてみよう。

考察①


嫌味を言う人やエアリプで文句を言う人と言う人の根本的な欲求として「責任を取りたくはないけど欲求は通したい」というものがあると思う。

要は、直接本人に言う勇気はないけど、自分の言いたいことは言いたいし、できればそれを言って人が動いて欲しい。もっと言うと「これは私のことですか?」と聴いた時に「そんなことないですけど~?(お前の被害妄想だろ)」と言えるような逃げ道を用意している。

ざっくり言うと臆病者、卑怯者なのである。

その根底には甘え…つまり、察して欲しいという気持ちがあり、迂遠に物事を言って要求が通る環境で育ったのだろうと予測する。

「これをしてください」という要求ではなく「これをしたいなぁ」と言ったら周囲が叶えてくれた体験がある。「これは好きじゃないなぁ」と言ったら周囲がそれを受け入れないことを許してくれた体験がある。

あまりにその体験が心地よく、かつ続いたので自分の要求は遠回しに言っても聴いてくれる、という前提がある。

考察②

または、攻撃をしたいという心理だろう。

何かイライラしたことがある。だが自分では消化しきれない。それをどうしても発散したいがためにたまたま都合の良い相手がいたからその人にぶつける。もしくは何かをやり返したくて行う。

どちらにしろ、あえて『誰かのいるところで、対象をぼやかして行う』というリスクヘッジ、防衛心を持った上で行っている。

それはつまり、そうしないといけない前提がある。言い返されたら自分が負けるかもしれない、もしくは自分にも弱みがある、直接攻撃を受けることは怖い、ということの表れのように思う。

迂遠な要求、もしくは瞬間的な攻撃性。

これこそが『相手に聴こえるように嫌味を言う人の心理』ではないかと思う。

考察③


これはどちらのパターンにしろ相手と向き合って真摯に話し合うと、他人に言った以上自分も改善することが出てくるという克己心の低さが表れている。

「これを直して欲しいです。」と言ったとする。そうすると(嫌味を言うような人なので)、「じゃあそういうこと言うんだったらお前もこうしろよ」と言われるのを恐れる。相手がそれをしてこないとしても、本人が毎日そうやって他人に思っているので、そうやって言い返されるに違いない!と思っている。

本人は無意識では気付いている。本人と直接対話をしない時点で「そうやって人に伝えて変わって貰えるような自分ではない」ということがわかっている。根本では人に影響を及ぼすということを諦めている。

嫌味を言う前に自分に向き合って不愉快なことをなくそうとするでもなければ、相手に直接言って変わってもらおうとするでもなく、そして相手に何かを言った時に発生するフィードバックも恐れている。

根本的に『その出来事の主軸は自分である』という前提を全て放り出しているのである。

結論

つまり嫌味とは日常的に心の中で文句を言いまくっていることが漏れ出たものであり、そのことを自分で変えて居心地を良くしようという覚悟のなさの表れであり、何よりそれをするのは自分でなく周囲が動くべきだという無意識の表明である。

それの、親が子供に駄々をこねておねだりをしているのと何が違うのだろうか?

おそらく、そういう人は厄介者として扱われてきており、これまで人に注意をして貰ってこなかったのだろ。

文句を言い、嫌味を言い、それが聞かれると「自分の要求が通った!」と思うが、その実他人は「この人面倒くさいから近寄らないでおこう…」と思っている。

本人は周囲は自分の言う事が聴かれて当然で、こんなに頑張っている自分は正しい、みたいに思っているからその要求が通ることに疑いはないが、周囲はその軸で動いていないということに気付いていない。

それを繰り返し、基本的には孤独をどこかで抱えることになる。

嫌味を言う人は嫌味を言う人特有のオーラや尖りがある。安心感や安住の地がないことの表れである。それは、いつも心の中で不平不満を言い、人の揚げ足を取っている思考や気持ちが、在り方として表れているのである。

卵が先か鶏が先か、という話にはなるが、そういう人はチクチクしているから人が寄り付かなくなり、そうして孤独感が発生し、更にチクチクしてしまう、という状態。そして本人は人と仲良くしたい、繋がっていたいという気持ちが強いため『ヤマアラシのジレンマ』に陥る。

つまり結論として『嫌味とはぬぐえない孤独感の表明』である。

対策

もし嫌味を言われたら、この人はあらゆる観点でさみしい人なのだ、と思っておくのがいいだろう。

何故なら、その嫌味の在り方について言及してくれる人もいなければ、そのままだと周囲から人が消えるよと叱責してくれる人もいない。その嫌味の要求はエスカレートするので、それを聴き続けた人は耐えられなくなって消えてしまう。にも拘わらずその人は嫌味を言うことを辞められない。心の中で文句を言いまくっている自分がおかしいのかも…ということにも目を向けられない。

マトモな友達、いないんでしょ。

いい年してそんなことも指摘して貰えない、友達もいない人に真面目に付き合うだけ時間の浪費というもの。

それを気にしていればいるほど、前述の通り同じことをしてしまう人間になってしまいますよ。

人の粗探しに必死になるより、他人の良いところ探しをできる人、ダメなことがあったらはっきり言える人間関係の中に身を置けばいいだけです。

嫌味を言う人は、その素晴らしい世界に身を置くことが耐えられないから、そこに居続けているのです。


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