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共有する音楽

まずはこの記事を読んで欲しい。タイトルだけでも雰囲気は分かるだろう。

同様の記事は他にも色々ある。

ストリートピアノが日本で中々根付かない事実に対して「不寛容な聴衆」を批判する意見は多い。 私は自分も幼少期からピアノを習いドラムで米国音大に行った身として、日本社会で文化としての音楽の捉え方の違いが影響していると考える。そしてそれは演奏者にも現れると感じている。


日本でピアノを習う子供は多い。しかし、発表会以外に不特定多数の前で演奏する機会は極めて少ない。 アイルランドのバー、米国の教会、、人々が寄り集まって、聴く人も奏でる人もごっちゃになって音楽を上下関係無く「共有」する機会が、他国には多くある。

これはアイルランドのバーの様子。


チケットを買って鑑賞するのでない。

演奏者と聴衆の境目が薄く声かけも起こるし静聴しなくていい。音楽の「共有」(「消費」でない)が文化の隅々に入り込んでいる。

私は音楽とは「共有と潤沢」が存在意義(テロス)の多くを占めるもので「私有と希少価値」をドライブにする資本主義とは基本的に相性が悪いと思っている。

例えば米国ゴスペル音楽は共有性の強い音楽形態で、ゴスペル出身のシンガーPJ Morton(彼はスティービーワンダーのような天才だと思っている)のこのビデオを見れば雰囲気は分かると思うが、ピアノの周りで聞いてる輩もみなシンガー。 PJの歌に対して合いの手を入れたり一緒に歌ったり。

このように「その辺にある生の音楽」を演奏者と聴衆が一緒に楽しむ機会は近代日本では非常に少ない。

音楽とは日々切磋琢磨して技術を会得したプロのものをお金を払って見に行くもの、と捉えられている。「達成」するものである、との考え方があまりに横行している。

なので「人前で演奏する」行為は自分の練習の成果、達成を”発表”するものであり、共有するものでない。この文化だと一方通行な演奏をする人しか生まれない。

私は故・坂本龍一さんとその事に関してお話しさせてもらう機会があった。

生活と音楽が密着している文化の現場を強く体感できたのはどこですか、と聞いたら「ブラジルとアフリカ」と仰っていた。

ケニアのマサイ族の学校にピアノを寄付する為に行った時、演奏をした後、女学生が「これはなんのための音楽か」と聞いて来たという。

戦いの音楽、乳搾りの音楽、結婚式の音楽、、、このように生活の中に音楽はあって、人間は何万年もそうやって音楽を共有してきた。着飾ってプロの演奏を聴きに行く「純粋音楽」の形は17世紀以降ヨーロッパの「働かなくていい」貴族階級によって確立された。実は歴史の浅いものなんですよ、どちらが良いとか悪いとかは置いておいて、と教えて下さった。


フランス革命以降の貴族層の解体、民主主義の普及によりその文化の門が開き、現在私たちは一般市民でありながら「貴族の真似事」をできるようになった。

純粋音楽を、素晴らしいもの、権威のあるもの、と資本主義のドライブで価値を一本化(売りやすいから)した。そして共有される土着の音楽は廃れていく。

日本にもあったはずのその共有音楽は、私は個人的には盆踊りぐらいでしか体験できていない。

ツイッターでこのことを呟いたら、「小津安二郎はそのような日本の音楽を記録していましたよ」と教えてくれた方がいた。


この共有・土着の音楽が「程度の低いもの」でありプロの演奏が「程度の高いもの」という価値の一本化は非常に残念な現象で、私は個人的に両方楽しめばよいんじゃないか、それこそが価値の多様性なのではないか、と思っている。

冒頭の記事では、独りよがりで「迷惑だ」と思われてしまう演奏者が出たことで、ストリートピアノに「マナーを守って」と注意書きが置かれたそうだが、当該演奏者に足りないのはマナーではなく

音楽とは非言語コミュニケーションであり、その場にいる他人と共有して初めて成り立つ自己表現である

との理解かと思う。



更に思考を進める。

音大学生時代、友人達とよく議論になったのが

音楽とは威厳やexcellencyを象徴するもので、人々が普段の生活から離脱する体験をするためにある。(希少)

との価値観と

音楽とは生活に根付いたものであり、生を祝福し、その喜びを謳歌するためにある。(潤沢)

という価値観。

両方内包するものだとは思うが前述のように今は私はこの後者の価値観が音楽のテロスの主たるものだと思っている。前者を尊ぶ人は「ミュージシャンは社会問題に言及したりそれこそ社会問題をテーマに音楽を作ったりしてはならない」との主張に行き着く。

バークリー時代、日本では上原ひろみさんとの共演が有名なデイブ・ディセンソが教員をしていた。彼はケニー・ワーナーの"Effortless Mastery"という本を紹介しながら

当時のバークリー生はみんな読んでた(笑)

「音楽家は自分を宇宙や神といった”崇高な何か”にチャネリングする為に精進する。自分の周りのわい雑なあれこれに左右されず、雑音を排除し、純度を高める事によってより高度な音楽が生まれる」

確かに「人間離れ」したディセンソ先生

みたいな事を説いていた。

私はそれにいたく感動して、師匠だったケンウッド・デナードにその事を話したら

彼から沢山のこと学びました

「。。。でもさ、音楽家だって人間だよ?自分の親やレコードレーベルのお偉いさんが客席に来てたら、やっぱり気になるし演奏は変わるよね?そのいうのも全部含めて表現するから音楽って素晴らしいんじゃないの?」

と言われて私はまた「ガーン!!!!」となったものだった(影響受けすぎwww)

人間が人間である事を、その日その日の生活の喜びを謳歌するのか。人間とは違う何かを求めて日々精進し達成したものを尊ぶのか。

音楽に関してだけで無く、「自分にとっての幸せとは何か」を考える際、人生のありとあらゆるシーンで拮抗する2つの価値観だと私は思っている。

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