見出し画像

「あがる」のではなく、「おりる」

久しぶりの投稿になってしまった。
ここ最近は仕事が忙しくて、考えごとをする時間が全くとれていなかったけど、さすがに自分の調子が悪くなってきた。

約半年の間、自分に向き合っていないと「言葉」が全く出てこない。
こうやって文章という形では言葉が出ているが、表層を掬ったような言葉ばかりで、自分の芯を捉えた言葉が出てこない。

ただそうやって言葉が出てこない自分自身を見つめながら思ったのは、
「ああ僕はまだ資本主義の土俵から降りる決断ができていないんだ」
ということだった。

別に仕事が忙しかったといっても、無理矢理仕事を押し付けられたわけではない。自分が選んで、好きでやってきた。

ただ、ある日ふと「僕はどこに向かってるんだっけ」って思った。
別に現状に不満があるわけでも、辛いことがあるわけでもない。どちらかというと楽しい部類だ。
だけど、「そもそも僕はこうやって実績を積んで、市場価値を上げて、その先にある"資本家"みたいなものになりたいんだっけ」と思うようになってしまった。

人生ゲームでいう「あがり」に向かって走っている自分に対し、
ある種の"気持ち悪さ"を覚えてしまったのだ。

別にそれが駄目なわけではない。
ただ僕はその人生ゲームの「あがり」に向かって続けるのではなく、そもそも人生ゲームから「おりる」という選択もありなんじゃないか、と思う。

周りが人生ゲームを続けているなかで、ひとりゲームから「おりる」のは決断がいる。
だけど「おりた」後にある道も存在すると思っている。
だから人生ゲームで得た、なけなしの道具を使いながら自分の道を歩むのも悪くないんじゃないかって。

いただいたサポートは、書籍代に消え、そして雨となって次のnoteになっていきます。