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世界を表現するために物語をつくる

前回、ストーリーとナラティブの違いについて書いてみました。

だけど、今回はナラティブにしても、ストーリーにしても「そもそも物語は何のためにつくるのか」ということについて書いてみたいと思います。

なんのための物語なのか

結論から先に行くと、物語は「つくり手の感情やその感情が付帯する妄想を表現するためにつくるもの」だと思っています。

いきなりで曖昧なので、ひとつひとつ説明していきます。
まずは「妄想とは何か」という話ですけど、妄想とは言い換えると「(主観的な)イメージ」と言っても良いでしょう。

前回noteでナラティブ(語り)の例で、鉄道オタクの鉄道語りを例にあげました。
例えば「この車両のこのフォルムが良いんだよ」というナラティブがあるとき、そのオタクは語り出す前に「対象の車両のフォルムとそのフォルムに感動・興奮する自分のイメージ・妄想」を頭の中に思い浮かべて、そのイメージを伝えるために語っています。
他にも映画の感想戦(語り合い)の例も出しましたが、「最後のシーン良かったよね」と語る時には、最後のシーンとそのシーンに感動している自分をイメージして語っていると思います。

ストーリーの作り手に関しても一緒だと思います。
何かしらストーリーをつくろうとする時、そのストーリーを通して表現したい感情やシーンを設定・イメージしてつくり出します。

ナラティブにしても、ストーリーにしても、つくり手(語り手)は「自分が表現したい感情やその感情が付帯する妄想(イメージ)を表現するために、物語をつくりだす」と思っています。

どうして表現したいのか?

では何故表現したいなんでしょうか?
これに関しては僕もよく分かりません。ただ、参考になるものとして平田オリザさんの『演劇入門』に、こんな言葉がありました。

私にとって演劇を創るという行為は、とりもなおさず、私に見えている世界を社会に向けて開示するということだ。
できるなら、私の脳が知覚しているさまざまな現象を、そのまま切り開いて、ここに示したい
そんな単純な欲求が、私を劇作へと駆り立てる。
平田オリザ『演劇入門』
劇作家はみな、何らかの意味での「フェチ」である。
普通の人にとっては、どうということのない瞬間、何気ない言葉のやりとりが、どうしても気になって仕方のない、そういった偏屈な人間が劇作家になる。
そして、その瞬間、その言葉に、徹底的にこだわることによって、普通の人々も潜在意識の中では実はさまざまな妄想や、悩みや喜びを抱えながら生きているのだということを明らかにしていく
劇作家というのは、そのような仕事だと私は考えている。
平田オリザ『演劇入門』

これは劇作家に限らない。作家や脚本家など物語をつくる人は、何か明確な目的のために表現するわけではなく、自分の偏愛や妄想を表現したいから表現するだと思っています。

感情をイメージすることで物語は起動する

いきなり物語を作ろうとしても難しい。
だからまずは一番最初にやるべきは表現したい感情を設定すること。
そのために自分が強い感情を抱いた時や、強い感情を覚えた出来事、その時のシーンをイメージする。
そうすることで物語は少しずつ起動し始めるんじゃないかなと思います。

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