noteは「一気に書いて、公開しない」

最近になり「noteはとりあえず書き切ったあと、すぐに公開せず寝かせた方がいいな」と感じるようになった。

これまで私はnoteを書く時に、撮って出しのドラマのようにとりあえず1,000文字ぐらい書き切ったらその達成感から満足して、全く読み返さず、まるで100m走を全力走りゴールテープを切るかのようにnote右上の「公開」ボタンを押し込んでいた。
この文章を読んで、他のひとがわかるかどうかとか、あとから自分が書いた時の心情を思い出せるかどうかはまるで気にすることなく「やったー!書き切った!!」という達成感そのままに「公開ボタン」を押していた。

だけど、いまとりあえ一気に書くことに慣れてしまったのか、書き切っても特段達成感を感じられなくなっている。日々の排泄行為と同じく、多少のスッキリ感はあれどその程度でしかない。正直「公開ボタン」を押さなくとも、大きく快楽は変わらなくなっていた。


であれば、未完の状態で置いてみようと思った。
公開をせず"未完成"の状態であれば、未完成だからこそ読み返してみたくなる。読み返すことで「ここわかりづらいから表現を変えよう」と伝わる形に修正したり、当時の考えや心情の解像度を上げることができる。
書き切ってから時間を空けることで、書き手としての役割が外れ、すんなり読み手や編集者みたく読み返すことができるのだ。

日々SNS投稿コツや関連書籍を読んでいると
「毎日書いて投稿しよう」
「毎日投稿がインフルエンサーへの第一歩」
と喧伝されているからか、なんでもいいから毎日投稿するべきなんだと無意識に植え付けられている。

けれど、実は「書き続けること」と同じくらい大事なことは「推敲すること」なのではないか。もちろん先ずは質より量なのことはたしかだけど、読み手がわかりやすい表現をつくり、また自分の考えや心情の解像度を上げなくてもいいわけじゃない。推敲しない文章は、薄っぺらくてありきたりな内容になりがちだ。そんな内容はAIに代替されるだけだ。

「とりあえず書き切ること」に慣れてきたら、投稿せずに寝かせて発酵させ、推敲したいと感じる自分を待つ。糠床を時々かき混ぜるかのように、書いた未公開のnoteを読み返し、一読者・一編集者の気持ちで修正する。そうすることで自分の過去を振り返ることができると同時に、より尖って伝わるnoteに近づいていくのではないだろうか。

このことはnoteなどブログに限らないと思う。
たしかにInstagramへの写真投稿・YouTubeやTikTokへの動画投稿など、何かを新しく始まるときに最初のハードルは「着手して、完成させること」だ。
ただとりあえず完成させて出すことに慣れてきたら、次のハードルは完成したものを見返して、修正すること。「やった!完成した!!」と感じたものを却来して未完成の状態に戻し、推敲する。眼の前にゴールテープを切らずに立ち止まり、スタートから走ってきた道のりを振り返る。少し辛いと感じることもあるけれど、そうしないとずっと排泄行為だけしていることになるのだから、より自分を深く知り、より良いものをつくりあげることために一度立ち止まり推敲したくなるまで待ってみよう。

いただいたサポートは、書籍代に消え、そして雨となって次のnoteになっていきます。