アウティング

アウティングについて思ったこと

アウティングという言葉が、よく見られるようになってきました。

アウティングとは、
LGBTなど(に限りませんが)の属性を持つ人たちの、その属性や内実について、
本人がオープンにしていないのに、
本人が了承していない中で、
それを外部に漏らして(バラして・暴露して)しまうようなことを言います。

一橋大学での自死事件や、
もっとごく最近では
成宮寛貴氏の引退に関し
絶対に触れられたくないセクシャリティについて語られていることに耐えられない
という手紙が公開されたことなどもあり
アウティングについて、話題になることが増えました。

“アート”として公開された場にセックスワーカーを呼ぶ、というような事件についても
共通している話と思います。

そのつもりで書いています。

それらの話題の中で気になっていたことがあったので
少し、記しておこうと思いました。


1、それを“明かされても大丈夫かどうか”は、人による

アウティングを、ただの公開行為と捉えてしまうと、
理解がずれてしまうことがあるな、と思いました。

たとえば、ひとことにゲイといっても
ゲイであることをオープンにしている人、していない人がいます。
完全にオープンにしている人であれば
「そういえばあの人、ゲイらしいね」
という話題が出たとしても、アウティングにはならないです。

しかしゲイであることをオープンにしていないのであれば、
致死性の攻撃になることもあります。

当たり前のことだと思うのですが、
話題の仕方によっては、そこが揺らいでしまうことがあります。

この場合、問題は
「あの人はゲイである」という、公開された内容自体だけではなく
本人がそれを公開しているか否か、という点にもありますよね。

「ゲイであることは、隠すようなことじゃない」
と、他者が判断して、
そのアウティングの是非についてどうこういうなんてことはできない、
ということです。

「こんなの、隠すようなことじゃないんだから」
「もっと自信を持っていい、そうすれば大丈夫」
というような言葉は的外れ
です。

セックスワーカーのアウティングに関する話題でも、見られますよね。
(っていうか、見かけてしまったことがありました)

「(明かされたくないなんて言うのは)自分で自分の仕事を恥ずべきものだと思っているからではないでしょうか」
「誇りを持ってしている仕事なら、誰に何を言われても大丈夫なはず」

こういうの、関係ないんです。

自分の仕事を、プラス・マイナスのどちらの方向にどう思っていようと、直接的には関係ない。
それだけで決められる話じゃないから。

いろいろな判断軸があって、その中で
明かすか明かさないか、決められるのは本人だけ
のはずです。
何かしらの理由をつけて、他者が「明かしてもいい・悪い」を決めるのは、
傲慢だし、攻撃
です。

(「隠すべきだ」というのが、ひどく侮辱的な攻撃であることもご理解いただけるといいなと思います)
(“腐女子”はよく、そんな趣味は隠すべきだとか辞めるべきだとか言われますね)(ミソジニーとホモフォビアによる合体攻撃ですね)


2、それを明かしても大丈夫か否かは、環境・状況にも依存する

たとえばセクシュアルマイノリティの存在が“普通”で、
その存在や人権が保障されている社会であれば
マイノリティである自分のセクシュアリティを誰かに伝えることがダメージになるような事態は、少ないでしょう。

でも日本は現状、そうではないです。

マイノリティが被るもろもろについて、マジョリティは正確に慮ることができません。
(これももちろん、セクシュアルマイノリティに限りませんが)
マジョリティにとって「たかがこれだけのこと」と思われる内容が
やはり致命的なものになる可能性があります。

同じ日本の中でも、
とある場で公開することはダメージにならなくても、
別の場所で公開すれば致命的になる、ということはありえます。
また、その人の立場や、状況の違いに左右されることもあるでしょう。

セクシュアルマイノリティであるか否かではなく、
問題は、
それを社会がどう扱っているか、という点にあります。

本人がそれを明かそうと思うか・思わないか、という点には
とても強く繋がっていると思うのですが
厳密にはちょっと別です。

「本人は明かそう・明かしたいと思っているのに、明かせない」という状況って、ありますからね。

本人が公開しよう・公開したいと思っているか否かとは別に、
その内容が社会でどう扱われているか、という点も見ていったほうがいいのではないかと思います。

とはいえ
「本人の判断」が最上位にあるはずなので、
それが社会の中でどのような扱われ方をしていようと
本人の意思を差し置いて、
「隠すべき」「公開すべき」と言うような議論は成り立ちません。


3、アウティングを「***に限らず」と、その他の暴露の話と同一視することで、不可視化されてしまうものがあるということ

セクシュアリティについてだったり、セックスワークについてだったりを
ことさらに”例外的なもの”として扱うことは
たしかに差別ですし、暴力です。

でも、「***に限らず」と、マジョリティにとっての暴露と同一視してしまうと、隠されてしまうものがあります。

前項で述べた
「社会からどう扱われているか」という点です。

誰にとっても、公開していないことを暴露されてしまうのは辛いことです。
属性がマイノリティであるか否かにかかわらず、
致死性の攻撃となることがあります。
その点は、たしかに変わりません。

それでも、同一視は危険です。

社会的に脆弱な立場におかれている場合、そこには
不平等や、不均衡や、不公平があります。

「***に限らず」「その他のプライベートなこと同様」とすることで、
特別視という偏見をなくそうとしている、とも思われますが
今ある構造的な不利や差別が、不可視化されてしまうリスクがあります。

マジョリティであるかマイノリティであるかは、
固定的な立場ではありません。

ある点においてはマイノリティである人も、
別の点においてはマジョリティであるかもしれません。

だから、とある点について「自分はマジョリティであるか」「対象はマイノリティではないか」については
常に確認する必要があると思っています。

しかもマイノリティか否かって、単に個体数の話ではなく
権力・発言力・経済力など
いろいろな差として現れることもあって
(だから日本では、”女性”はマイノリティである場面が多いですよね)
いちいち確認するのも難しい、ということもあるかもしれません。

それでもです。

「特別視をなくすことで理解をはかろう」という語りをすることで
差別の不可視化に加担してしまうことがないよう、気を付けたいです。

おしまい。

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