見出し画像

私の原点はどこまでも「まっさらな無地」だった

何かを書きたい時。
ノートを、手帳を、どうやって選ぶだろう。


数え切れないほどの「書く」経験

学生時代から社会人になった今まで、数え切れないほどの「用紙」を使ってきた。

原稿用紙、算数の方眼ノート、お絵かき帳。
国語は大きなマス目が入った漢字練習帳。

中学や高校はほとんど横罫ノートになったけど、大人っぽく(?)見えるからと幅が少し狭くて小さい字が書けるものを選んだっけ。

じゃあ、私に1番合った紙って?

大人になると、「この科目はこのノートを買いなさい」といったルールがなくなる。

だから日常で、仕事で、自分が使いやすいと思うツールを探すようになった。

横罫

何となく、学生時代から使っていて横罫は違うな…と思っていた。

横書き、縦書きが制限されるし、はみ出すとモヤッとするんで中身より「キレイに書くこと」で頭がいっぱいになってしまう。

方眼

じゃあ方眼はどうか。
よく「デキる人は方眼ノートを…」なんて本や記事も見る。

確かに横罫より自由な割に、線に沿って文を書けばまっすぐになるけど…

これも使い続けてわかった。
「使いやすいが用途を選ぶ」タイプだ。

例えばグラフをきっちり描くだとか、リストを箇条書きで作るだとか。

そういう最適な使い方がある一方、「枠にとらわれず書き殴りたい」時にはやっぱり線が気になってしまうのだ。

ドット方眼

ではもう少し自由度を上げて「ドット方眼」はどうか。

これは一時期愛用してたし、今もマンスリーについてきたLOVE Leafさんのドット罫をモリモリ使っている。

実はドットがLOVEの文字になっている。
シンプルな隠れカワイイが刺さる。

今のところ、箇条書きにもちょっとした作図にも使えて目立たないガイドがあるドット方眼はとても便利だと思う。

ただし、「これが自分の1番だ!」と思えるかというと…そうでもなかったり。

小さい頃から私のルーツは「無地」だった

結論、どれだけ自由度を上げても線や点は私にとって「ノイズ」になってしまうことがある。

便利だし必要なときもあるけど、絶対いつでもこれがなきゃ!と思うものではない。

実は、小学生の頃は小説を書くことが好きだった。
お恥ずかしながら当時見ていたアニメや小説に世界観がだいぶ引っ張られてたけど。

クラスメイトにも何人か小説家はいたのだが、必ずと言っていいほど横罫ノートにみんな書いていた。

だが私は。
未使用の横罫ノートが家に数冊あるのに、それではなく自由帳に書いていたのだ。

理由はある。
途中で拙いながらも挿絵を入れたり(絵は苦手だが)、
ページの途中で文字を大きくして強調したかったり。

線があるとやりにくいから…
思いついたときに書き方を変えたいから…
という今と全く変わらない視点で、私はまっさらな何も無い紙を選んでいた。

その方が、自分のイメージした世界が形にしやすい気がして。

気分屋で気まぐれ、そんな私が見つかった

システム手帳を買った時、メモ帳の正解がわからず無地・方眼・横罫を全て詰め込んだことがある。

最初の予想では、1番に無くなるのは方眼だろうと思っていた。

ところがどっこい。
無地だけがどんどん消費され、他の2つは数枚使ってから微塵も減らなくなった。

横罫はかろうじてショート日記を毎日書くことにより上手く使い切れたが、
方眼に関しては何に使うかわからないまま未だに残り続けている。

無意識に選んで使ってしまうほど、無地は何にでも使いやすかったのだ。

万年筆の試し書き、理想の部屋のインテリア。
いつか作った靴下の編み図と段数のメモ。
刺繍も少し嗜むので、その下絵スケッチにも。

そのページを何に使うか、どんな風に使いたいか、全く決まっていない。
思いついたままに、書きたいように使う。
「ここはこんな風に使おう」と決めると身動きが取れず私が消えてしまう。

私は気分屋で気まぐれ、考えなしにポンと行動してしまう。
そんな性格が、ノートのフォーマットにまで影響するとは、と思わぬ発見にびっくりした。

ノートを選ぶことは、自分の一部を知ること

だと思う。

ちょっと大げさかもしれないが、紙に何かを書くことは、その人の脳みそや思考と直接リンクすること。

頭の中を、手とペンを通じてダイレクトに流し込む受け皿なのだ。

味噌汁を平皿には盛れないように、
その人の思考の癖や性格が受け止められる紙の大きさ、形がある程度決まっているのは当然なのかもしれない。

紙が変われば、思考が変わる。
いや、思考「しやすさ」が変わる可能性だってある。

そういう意味で、私は本当に自由奔放な頭をお持ちのようで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?