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ロシアの人たちからの、お土産

40年ほど前の思い出です
私は友人と二人で、子どもを連れて中心街の大きな公園に遊びに行きました
9月の陽光は、心地よくて、たくさんの人たちが、楽しく過ごしています
私たちも 子どもたちが走り回るのを見ながら、ベンチに座っておしゃべりをしていました
ふと気が付くと、近くに座っている人たちは、顔は日本人なのですが雰囲気が外国人の様で、皆さん楽しそうではなく、静かに賑やかな様子をボーと眺めています
誰にでも、話しかけるのが好きな私は、隣に座ってる方に「どこの国の方ですか?」と聞きましたら。(勿論 日本語で)
5~6人の男性たちが、小さな新しい本を持ってニコニコと集まってきました
それは辞典で、ロシア語と日本語が書かれているものでした
先ず 彼らが尋ねてきたのは「職業は何か?」でした 
当時、私は主婦でパートで働いていましたが、その「主婦」の言葉は、なかなか出てきません。半ば諦めたころ一番最後に「主婦」があり、ロシアの皆さんも 安心したように笑顔になりました

それからは 辞典を介して皆さんとワイワイと話しが弾み、集合写真もとりました。
一番元気な50歳くらいの女性は、顔が良い色に日焼けしてましたので農業か漁業のお仕事かな?と思っていたら医者でした。
 
一行は、バイカル湖近くのブリヤート共和国からの観光団で、今日の午後、
船で帰国するとの事、日本に来て 日本人と仲良くなりたかったけど、日本人と話すことも無く帰国するのが、とても寂しく心残りだったと、おっしゃっていました

それで、日本の人にあげたいと思って、お土産を持ってきたのに、
又持って帰るのが悲しかったけど、私たちに会えて、良かったと、
おいしいお菓子や土産品をどっさり下さりました
中には何もあげるものがないからと、ご自分の使っているボールペンや
リボン、髪飾りなどを下さる方たちもいらっしゃっいました
それで 私たちも何かお返ししたいので、急いで近くのデパートへ飛び込んで日本的な物を用意して、お別れしました。
  
 バイカル湖と言えば太平洋戦争時のシベリア捕虜収容所が思い浮かびます
林芙美子の短編「下町(ダウンタウン)」でも、「主人がバイカルの近くの…」という件がありますが
 この日 皆で集合写真を撮ろうという時、中に入らず、遠くで沈んだ表情の男性がいらっしゃって気になったのですが、「あの人 日本人なんだよ」と皆さんが教えてくれました。
私の父もシベリア捕虜収容所にいたので、「日本に帰らない兵隊も居たんだ」と聞いていましたから、戦争で変えられた、その方の人生を思うと、辛く胸が締め付けられた様になったのを覚えています。

あの時 お会いした 歌の上手なタクシードライバー 音楽学校の先生
大学生 食堂のウエイトレス  ロシア関連のニュースを見るたびに 
みなさんの顔が思い出されるのです