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武田邦彦『その「エコ常識」が環境を破壊する』

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概要

・リサイクルは資源を浪費する。
・ペットボトルのリサイクルには、製造の3倍のコストがかかる。
・石油・石炭は有限だが、紙資源を作り出す木材は増やせる。
・製品の寿命は、使用者の意思によって決まっている。
・昔からあるものの方が環境にいいと、自然に思い込んでいる。
・人は便利を追求し、自然から離れ、かえって疲れている。
・「エコ運動」の目的は、手軽にできる自己満足。
・地球規模の環境問題は、個人の手に負えるものではない。

感想

「エコ活動」に対して、私が最初に違和感を抱いたのはプラスチックストローの排斥運動だ。それほど大きくなく、多くなく、使用量も少ないと思われるストローがなぜ槍玉に上げられるのか、その一方でなぜプラスチックカップは使われ続けるのか。

「魔女狩り」と、この本では表現されていた。中世のヨーロッパで罪のない人間が魔女として晒し上げられたように、現代では、罪のない製品や行動が悪として、主にメディアなどで晒し上げられている。つまり、異端が意図的に作り出され、環境問題のスケープゴートとされているのだ。

「Not in my back yard」訳すと、「私の家の裏庭ではやらないで」という言葉がある。これは、自分が当事者になることを避ける人間の一般的な心理を表現した言葉である、例えば、発電所や保育園、基地や焼却場など、その建設の必要性を多くの人が認めているが、同時に、自分の周囲ではやめて欲しいと思っている。

環境問題に関しても同じことが言えるだろう。環境を守るため、エコのためと言いながら、自分の生活を変えようとは思わない。自分で責任を負いたくない。その代わりに、企業や、国や、特定の地域、住人を攻撃し、その企業や国が用意したまやかしのエコ活動に参加して、エコアピールを行い、自己防衛に走っている。

環境問題に限らない、多くの、ひょっとすると全ての社会問題は、こういった人間の心理が働いているのだろう。誰もが自己責任を避け、誰かのせいにし、それが自分でないとわかると、途端に安寧を得る。

二つのものが必要だ。目的意識と危機意識を持って責任を引き受けられる、行動できる個人と、そんな個人を支援できる社会が。
社会は個人で構成される、社会の意思は個人の意思で構成される。他人事で済ませない個人が増えることが、問題解決の土壌を形作り、解決策を生み出すのだと思う。
私は信じる、そんな個人も社会も、ほんの目の前にあると。

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