棋譜並べ日記#26 角換わり同型

24から高段者同士の棋譜の転載である。
棋譜は無料で検索できるが、名前は控えた方がいいと思うので匿名でお送りする。

角換わりの激しい変化である。筆者はあまり詳しくないのだが、玉が露出する形はなかなか指すのが大変だと思う。

ここで△6五同歩▲同銀△同銀▲同飛△3七角成▲5四銀で先手優勢に。

至って自然な手順のはずなのだが、急に後手が苦しくなった。理由を考えてみたい。

予想するに…▲5四銀が盲点だったのではないかと考えている。△5四同玉▲6二飛成△4八馬でもまだ自玉は寄らないかもしれないし、それなら馬を取ってくれるという考えになりそうである。

ということで、正しいのは△4二玉であった。
▲6四歩に△3一玉と引いておき、これからの勝負。

しかし、ここまで上で踏ん張るような手順を重ねてきただけに玉を引くというのは発想の転換が必要である。つまり柔軟な発想ということだが、これが後手の難しいところだと思う。

次にこの局面。
ここで▲6四同飛△6三歩と進んで、互角の形勢に戻ってしまった。

正解は▲7五飛として▲6三角があるので先手優勢なのだが、こちらに使うという発想はちょっとひねっている。
▲5五飛ならまだわかる気がする。ただ、受け止められに行っているのでこれも指さない。

ここで意外と飛車の引き場所が難しいというのも、意外な落とし穴。
19秒の考慮で▲6九飛と引いているが、△5八銀が好手であわや後手が持ち直すというところに。

▲7四桂や▲6三銀成など多数の含みがあるだけに、飛車を引いておくだけで先手の攻めが続く…と思ってしまうところで、「飛車を引くといってもどこだろう」という問題が置き去りになってしまったのかもしれない。

逆に言えば後手は飛車を引いた後の責め方を考えているわけで、ここで読みの量が逆転してしまったのではないか。そういう分析をしてみた。


△5八銀は好手だったが、▲6八飛にほぼノータイムで放った△5九角は悪手だった。
駒を取り合っては、いよいよ後手陣が攻略されてしまうだろう。

戻ってここでは△5三歩と収めるのが好手。
▲6三銀成や▲7四桂が気になるところだが、その怖さは実は幻想で、進んでみれば全く軽傷である。

金を取られて裸になった後手玉だが、案外広さによる耐久力はある。
△7六歩から攻めのターンを握ってこれからの勝負である。

わずかな時間の間に心理的な盲点がいくつかあったように思う。


粗探しばかりしているようで申し訳ないのだが、もちろん強さを感じる場面も多かった。
ここで攻めのターンが回ってきた先手だが、▲7四桂△7二金▲5三銀打△4一玉▲4四歩は見事な攻めだった。

歩の攻めが良いとは言うが、自分ならば▲6四歩と打ってギリギリの攻めになってしまうところだった。
こういった手厚い攻めは逆転を許さない性質を持ち、非常にうまいと思う。



 どうして高段者の棋譜をピックアップしようと思ったかというと、それは以前述べた心理戦の分析をしたいという目的からだった。

 またその昔、『失敗の科学』という本を読み、失敗から学ぶ極意というものを知ったように感じていた。当時の認識としては、「失敗に対して正しいケアをすれば良い経験になる。つまり成功でもある」というもので、前向き思考を学ぶ程度にとどめていたと思う。

 その「正しいケア」って何?と思ったとき、当時の棋譜並べ日記では「人間の間違いをソフトが咎める指し回し」について言及していたように思う。
 他人の間違いから学ぶ。つまり、相手の失敗を的確に咎めるのが将棋の正しいあり方という考え方だった。難解な局面では、人間だから必ず間違う。序盤の研究だって時に忘れるのだから、いつかは間違う。だから、自分は間違えずにそれを待ち、もぐらがひょこりと頭を出した時にハンマーで叩く。言うなれば神視点である。
 本書の内容を将棋に置き換えると、こういう解釈でも良いのだろうなと悪く言えば少し捻じ曲げた解釈をしていたフシがある。

 今もう一度「正しいケア」について考えてみると、それって実は「失敗が起こった原因を徹底的に探ること」なのではないか?と思い始めた。
 先程の例ついては、間違いを咎める手筋を知るのではなくて、「人間がどうして間違いを誘われたのか」を探る方が理にかなっているのではないか。

難解な局面では、人間は必ず間違う。否。
難解な局面では、人間は相手に惑わされる。ではないか?

 そもそも”わかる局面”では、間違いは自然発生しないのだ。人間と言えど、案外精巧な生き物なのだ。プロの直感は大体正しいのと同じで、高段者になればどんな局面でもほぼ正しい大局観を備えている。
 そんな相手に対して”自然に間違う”と期待するのは間違いだろう。間違えさせる、間違えさせられた、といった方がいい。

 よって"難解な局面"の定義は[相手の対応によっては先が見通せない]という一種の懊悩を含んでいるといえよう。そして相手もそれは同じである。
 また同じ話をするが、これは盤上に限らぬ心理戦ということでもある。

 将棋盤の上に、人間心理という靄を含んだフィルターを通して将棋を指しているのが人間だ。それが無いのはソフトである。

 少し話が逸れたが、私が言いたいのは「間違いの原因を深層心理に求めることで、難解な局面の脱し方がわかる」という提案である。
 なぜ、この現局面が難解と思われるようになったのか。原因は様々だ。有利から不利に転落し、また互角に戻ったときは誰だって”難解”と思うだろう。ただの互角なのに、心理的な誤解が生じている。仮にそれだけの原因なら、局面を客観視するという意識で脱出し、クリアな読みができるようになる。


 そんなふうに、失敗から学ぶための「正しいケア」というのは心理というものを適切に扱ったうえでの敗因分析である。
 
 よってソフトvs人間というのは、指し手の正しさを競う競技で人間が負けただけであり、そこにある表面的な手筋しか学ぶことができない。
 そもそもソフトに”狙い”などの気持ちは無いのだから、人間が見つけられない最善手をひたすら拾って来られるだけである。知識(読み)量で完敗している時点で、そもそも勝負にならない。

 その点、人間vs人間からは色々な攻防が見られる。実力が拮抗しているというのは、つまり知識(読み)量が同じと仮定できるので、そこを抜け出すためには心理的盲点を引き出す狙いが必要だ。

 間違えた人は、知識で負けたのではない。間違えさせられたのだ。
 その原因と結果を分析することが実戦的な強さの源泉となることだろう。

 
 3年前に、こんな発想があればまた私の将棋人生は大きく変わっていたのかもしれない。
 ただ、ソフト同士の棋譜並べも悪くなかった。ソフトの棋譜なんて5000局は並べたものだ。その経験が無ければ、この考え方を真正面から受け止める器も完成していなかっただろう。
 強くなれたのは、間違いない。

 しばらくは、お別れになるだろうけど。

 

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