対局日記#392 直感が間違える局面とは

2022/7/12

 最近、色々なことに気付くというか、原理がわかるというか、そんな感覚に入ることがあります。
 将棋はもちろん、何か勉強をしていても、「つまりはこういうことなんだ」とひらめく瞬間があって、積み重なってくると世界が分かってきたような錯覚に陥ることがあるんですよね。

 でもそれってものすごく危険で、自分がとんでもない勘違いをしている可能性を孕んでいるのに、「今は冴えててすごく頭がいい」なんて気分だったら本当に大事なことに気付けない気がします。
 でも、そもそも本当に大事なことってなんだろうと。自分を勘違いさせて生きてるほうが幸せな部分も、この世界にはたくさんありますから。いったい何を知るのが良いんでしょう。

 なにやら抽象的な話ですが、私自身もよくわかっていなくて、備忘録みたいな感じでここに書き残して置きたいという思いでした。



さて、今回は目の付け所の話。
▲2四銀△2三歩▲3三歩成というのは部分的な手筋で、決まっていることもあるのだが、銀が宙ぶらりんの状態で桂を跳ばせるというのは、考えてみると結構危険な状態である。

ついついこの変化を避けてしまったのだが、△3六歩があって後手優勢である。
かといって▲3七桂が無ければ△4五桂を含んだ他の手が成立するし、△3四歩で一手稼いだり、△8五飛で後退させたりと、やりたい放題である。

▲3三歩成はよほど成功しにくいと思っておいた方がいいかもしれない。


反省するところも少ないので、最終盤。
ここで△6二銀▲7二銀と進んで投了した。まあ詰んでいるだろうなと互いの認識だったのだが、△7三玉と寄れば詰まなかった。

こういうのはだいたい詰むのだが、持ち駒と上部の広さが1%の可能性を秘めていた。しっかり読めば、気付けたことである。


この対局に関してはほとんどノータイムで、あんまり反省する気も無かったのだが、改めて見直してみると直感が間違えるポイントというのが存在する気がする。

直感とはそもそも経験に裏打ちされた感覚であって、見た瞬間におおよその評価が可能である。つまり「形勢」「実戦的な怖さ」「数手の狙い筋」などがパッと思いつく。
しかしそれらはすべて「経験」から生み出されるものであって、つまり人間の本能と同じような側面があると思う。よって「勝ち負けの経験」や「玉の近くで起こる戦い」では本能が敏感に反応しすぎるあまり、評価が極端になりがちであると考える。また「駒の損得」という分かりやすい判断材料も結構強くて、「桂損だがこのあと狙いが多いので有利」などというのは直感的に判断するのは非常に難しい(一度経験すればわかるが)。

つまり「直感」というのは、目先の損得に振り回される関数だと思って良いのかもしれない。「怖いのは嫌」「受けきるよりも攻めていたい」のように。我慢が利かないのだ。

だからそれをうまく飼いならすのが「読み」であって、やっぱり読まないと誰でも間違える。プロが直感でも間違えにくいのは、ただ経験した局面が多いから色々な評価軸があるのであって、決して「センスというものが磨かれて、なんでも対応できる」という神秘的なものではない。直感を競うというのは、一筆書きで描いた線が綺麗がどうか、くらいにくだらないものである。

それに付随して、「たくさん早指しで対局すれば直感が鍛えられる」というのも微妙な理論である。直感とはある意味、読みの概念を飛躍して答えにたどり着く行為だから、その間に明確な理論というのは存在していない。だから、指している本人は頭を使っているつもりでも、脳はただ「判断」しているだけである。ポケットに入っているビスケットを出すくらい何も考えていない。
そうなると、直感だけで指して鍛えるのは「経験の学習強化」に他ならないため、正しい勘は一層よくなるが、間違った勘も強化されて、元も子もない。将棋は間違いを減らすことが至上主義なので、正しさと間違いが同時に強化されることはただただ損なのである。100点の手を目指すのではなくて、0点の手をひたすら消していく作業が正しい学習方針だ。
だから直感を鍛えるには「よく考えて、正しく局面を捉える」ということが必要。一度正しく捉えた局面は、後に同じ局面を直感で判断するときにも役に立つ。真逆のように見えて、それらは一貫しているのだ。同じく、「読み」、そして後にそれを「反省」して、さらに「復習」すると、ますます効果が高いのは目に見えている。

それに関しては、私も耳が痛い。

子ども教室で先生が言う「よく考えなさい」という言葉は、実はこんなにも深い。いや、もっと多くの意味を持っているのかもしれない。



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