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私の過去⑬~再びの葛藤・中庸へ~



私が実家を出た後、妹に、もしも宗教を辞めたい、実家を出たいと思ったら私に話してほしいと伝えた事がありましたが、妹はずっと宗教組織を離れる事なく、両親と同じように宗教教義を信じて過ごしていました。
過去に父親から、私が悪影響を及ぼさないよう妹に近づくなと言われてから、妹との関係性は微妙なものになって時間が経過しましたし、
両親と同じように、妹ともお互いの考え方を話すとその違いが歴然となり、傷つけ合う事になると思っていたので、交流が無くなった後、私のほうから連絡をとる事はほぼありませんでした。

妹と連絡をとり、昔の事を思い出させて悪いけど...と伝えて、大丈夫だよという事で、メールのやり取りをしました。

妹は私と同じように、幼少期に受けた体罰や制限はトラウマになっていたとの事でした。
妹は当時の事の、何が正しくて、何が間違ってたのか、自分ではっきり知りたいと思い、宗教教義を学び続けて、そこが分かったから乗り越えられたとの事でした。
妹は、宗教教義は間違いではなく、正しいんだな、という事が分かったと、子供の育て方も、教義は正しかったけど、親のやり方が間違ってたんだな...と思ってると。
両親は当時、1番良いと思う育て方をしてくれたのかもしれないけど、極端になってたり、厳しすぎたりしてしまったと思う、と言いました。


鞭の使用については、前によく調べてみたが、宗教組織の本の昔のものを読んでも、最近のものを読んでも、体罰を推奨してはなかったと。
教義の元となる本に 'むち棒' という言葉が出てくるのは確かだが、それは体罰のことではなくて、愛を込めて教えるという意味があると。
組織の本はそのことを昔から説明しているけど、鞭という言葉を勝手に誤解して理解して、体罰推奨...というようになってしまったのかもしれない。
日本は文化的に、あの人がやってるから私も、という風潮があったりして、教義の本に書いてあることをしっかり理解しないで、周りの人のやり方をどんどん真似していった結果、組織が推奨してる、みたいになったんじゃないかな...と思う。と、話しました。

妹が調べた事は、今現在宗教組織内にいる人と、宗教組織から離れた人達で論点になっている部分だと思いました。
組織内にいる人と、離れた人とでは、認識や意見に相違があり平行線で、それは本当にそれぞれの気持ちや言い分があり、なかなか歩み寄れない部分だと思いました。
妹の言う事で、そこは違うと思った部分がありましたが、私は妹と議論するつもりはありませんでした。
私は、妹が自分で調べて、理解して納得してそれを信じているのなら、それでいいと思いました。
何を信じて生きていくかは本当に個人個人の自由だからと、伝えました。

ただ、私の認識が異なっている点は伝えました。
宗教組織の本に(愛を込めて教えるという意味であっても)言葉通りの鞭の使用の推奨があった事は記憶にあるし、長老が親達に対してや、研究司会者から研究生に対して子供に鞭を使用するように圧力があった事は、私は小学生だったけど気づき、記憶にある、と話しました。
そして1980年代半ば以降教育現場等で体罰が問題視されるようになると、いつの間にか組織から鞭使用の推奨がされなくなったはず、との認識を伝えました。
私と妹とは認識が違いましたが、
ここでどちらが正しいか間違いか等を議論しようとはやはり思っておらず、そう伝えて、それぞれの信じる物事をただ伝え合うという姿勢で話しました。

その中で、当時組織からの間違った教えにより親から体罰を受けて、心身傷つき生き辛い人生を送っている2世3世などの人達が一定数いる事実もある、という事も伝えました。
妹は黙って聞いていました。

そして私は、鞭の使用が推奨されていたのに、推奨されなくなった時、両親はどんな反応だったんだろうかと、その後妹に、なにか言葉をかけてくれたかどうかを尋ねました。
自分の子供達に鞭を与えて、厳し過ぎる制限を与えて、痛みや辛さや恥ずかしい思いをさせて、心身に傷を負わせて、それが後になって、組織の教えが変わりました、となっては、信じていた者としては大変なショックだったと思うけど、両親は、すんなり受け入れていたのだろうか??と聞きました。


妹は、親にそういう話をしたことがあると。
父親は、頑固で性格上自分が悪かったなと思ってもなかなか言えないタイプ。でも苦労をかけた...というのはよく言ってくれる。
母親も、理解が足りなくてごめんねって何回も言ってくれて、今いろいろ良くしてくれる。との事でした。そして、
'両親は、組織のやり方が変わってのショックじゃなくて、自分達があまりにちゃんと分かってなかったショックの方だと思う' と、言いました。

なるほど...あぁ...やっぱりそうか...と思いました。
この言葉で、両親の解釈、捉え方がわかりました。
私が聞きたかった事の答えが推測出来ました。
両親は、ブレないんだ、と思いました。
宗教教義の間違いを間違いだと捉えて指摘するのではなく、自分達がちゃんと理解していなかった、と捉える。...やっぱり、うん、そうだよね、と思いました。
今回の報道等を宗教弾圧だと捉えているかまでは話さず、わかりませんが、両親のとる立場は、私が葛藤していた、どちらだろうと考えていた、後者宗教側のほうだと思いました。


私は、妹に、父親から苦労をかけた...とか、母親から理解が足りなくてごめんね、という言葉があった事は本当によかったと思い、そう伝えました。
ただ、本当は、私と妹に対して、どれだけ謝っても取り返しがつかない育て方をしたんだと、それだけ大きな影響を与えて人生を左右してしまったと、はっきり認識しての謝罪がほしいと、私は思うけどと。
ただ、もう、これを実際に私が両親に言う事は現時点ではないと思うと。
あとは自分の気持ちの置き所を整理して、置いておくつもりだよと話しました。

妹と話せてよかったと思いました。
妹もそう言っていました。


妹との話しから、両親の信仰心の強さ、それによる解釈、捉え方、が再度わかりました。両親に直接は確認していませんが、私は確信出来ました。
信仰していない私から見ると、そこの捉え方は違うよね、と、いうところがあります。
でも、それが宗教を信仰する信仰心という物なんだろうと思いました。
両親は、過去に自分達が私や妹に行った体罰や制限を悔やんでいる気持ちがある。
その気持ちを持ちながらでも宗教教義を信じ続けていて、これからも信じ続けるだろうと思いました。
両親は、そういう両親。
妹も、自分の信じるように生きている妹。
それでいいと思いました。
そして私は私。それでいいと思いました。
そういう事だと思いました。
それぞれが違っていて、それぞれそれでいい。
再度、はっきりと、そう思いました。


そして、その、ブレない両親なんだという事に納得しました。
宗教教義や信仰心や何が正しいとか間違ってるとかではなく、両親の自分の信じる物事に対してブレない事、ブレない姿勢に納得がいきました。
あくまでもその姿勢にですが、お見事、と、かっこいいとさえ感じました。
初めて、両親、妹の事を認める事が出来たのか、本当に初めてそんなふうに思いました。
やっぱり宗教組織側に立つのか、と思いましたが、なぜか今回は今までの私と違い、悲観的には思わなかったのです。


父親は、子供達に苦労をかけた...と思っている。
母親も、理解が足らなくてごめんね...と思っている。
両親から妹への言葉が、同じように私に対しても、そんなふうに思ってくれているのだろうな...と思えました。


両親は、当時の組織、長老や研究司会者からの教えがあって体罰や数々の制限を子供達に課してしまった事、記憶していると思います。
その記憶と、それでも宗教教義を信じ続け、これからも信じ続ける気持ち。


一昨年の、両親との電話を思い出しました。
母親が父親にも電話を代わった事。
父親の電話での言葉。
'なにも してやれんで すまんなぁ' ...
その行動と言葉に、きっと、気持ちが...
両親の、両親なりの複雑な気持ちが、きっとあったのだろうな...と思いました。


宗教を間に挟み、相容れない部分はありながらも、両親、妹と、私はそれぞれ双方お互いにお互いを思いあっていると思いました。



⑭へ続きます。



お読み頂き、ありがとうございました。




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