命を懸けてはいけません。

まずは故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


昨日、大事な会議を忘れてすっぽかしてしまいました。こんなことやらかしたのは初めてです。自覚はないんだけれど自分も実は動揺しているのかもしれない、と気がつきました。
先日の宝塚歌劇団の事例について。
書くつもりはなかったのですが、心の整理のために書いたほうがいいなと思い、書きます。

ご不快になりそうな方は破線以下の閲覧をおやめくださるようお願いたします。

また現在、ご自身の動揺を自覚されている方は、できるだけひとりにならないようにされたほうがよいと思います。以下もご参考ください。


【報道でつらい気持ちになった読者や視聴者が、こころを落ち着けるためのWeb ページ】
・こころのオンライン避難所 https://jscp.or.jp/lp/selfcare/

【電話やSNS による相談窓口の情報】
・#いのちSOS(電話相談)https://www.lifelink.or.jp/inochisos/
・チャイルドライン(電話相談)https://childline.or.jp/index.html
・生きづらびっと(SNS 相談)https://yorisoi-chat.jp/
・あなたのいばしょ(SNS 相談)https://talkme.jp/
・こころのほっとチャット(SNS 相談)https://www.npo-tms.or.jp/service/sns.html
・10 代20 代女性のLINE 相談(SNS 相談)https://page.line.me/ahl0608p?openQrModal=true

【相談窓口の一覧ページ】
・厚生労働省 まもろうよこころ https://www.mhlw.go.jp/mamorouyokokoro/
・いのち支える相談窓口一覧(都道府県・政令指定都市別の相談窓口一覧)https://jscp.or.jp/soudan/

【孤独・孤立対策の支援制度や相談窓口の検索サイト】
・あなたはひとりじゃない: 内閣官房 相談窓口等の案内 https://notalone-cas.go.jp/
 支援制度・相談窓口の検索 https://notalone-cas.go.jp/search/
 18 歳以下の方向けの検索ページ https://notalone-cas.go.jp/under18_chatbot


ーーーーーーー(以下、閲覧注意)ーーーーーーーーーー









自分が属する「病院」という場所はたぶん、「ふつう」よりも人の死に近い環境であろうかと思う。

「死」というのは不思議なものだ。「死」が誰かのもとを訪れた瞬間、その「死」は死んだご本人のものではなくなり、周囲の他者のものになってしまう。そしてご本人の意図せぬところで他者によって昇華、もしくは消化され、ある意味、勝手に意味づけられる。すなわち「死」という概念は残された生者の中にしか存在しない、とも言えるかもしれない。

病院という組織の中にも、より人の死に近い部署と遠い部署があり、また死のどの段階に関わるかという違いによっても、そこで働く人々の死生観や死に対する向き合い方にはけっこうな差というか濃淡があったりする。
だから組織として、折に触れて、その違いを表明しあう機会が必要だ。
一致させるためにではなく、違いを知るためである。
人として自分の心を守るために、またプロとして視野狭窄の危険を回避するためにも、死に対するありかたの現実的な多様性を知ることはとても重要なのだ。


自分がこの一年間、宝塚歌劇に触れてきた中でずっと、危ないなと思ってきたことがある。

「命懸けで舞台に立つ」
という、劇評などにしばしばみられる表現である。

たとえ比喩でも、これは危ない。
ましてや美辞として使うなどもってのほかだし、もしそのように表現される状況が現実であるなら、あるいはそれを強要されているなら、そこにいる人は一刻も早く逃げ出すべきである。
なぜなら人は、命を懸けたら簡単に死んでしまうからだ。

世の中には生命に直接的な危険が及ぶ職業が多々あるが、そこに従事する人々は必ずしも、命を懸けてはいないと自分は思う。そうした職業には命を懸けないためのノウハウが必ずあり、その遵守が徹底されているはずだから。

自分たち医療従事者も、ワクチンができる前の新型コロナ対応には相当の危険を感じていた。だからこそ自分を守る(ひいては他者も守る)ための対策を万全にすべく努めていたし、今も、程度こそ軽くしつつも続けているし、今後も止めない。
第一波の頃、新型コロナに対応する医療従事者に対して
「命を懸けてくれてありがとう」
と世論が感謝の意を表明してくださったとき、有難いと同時に、自分はとても申し訳ない気がしていた。命懸けてなくてごめんなさい。と。

たとえ言葉のあやであっても、絶対に、命を懸けてはいけない。
言葉は思考として刻まれてしまうから。

今回の件による波及を劇団がどのように収束させるか、ひとりのにわかファンとしてはただ静観するしかない。
過程において誰ひとり傷つけずに進めることはおそらく不可能であろうし、そこからまた別の余波が生じるであろうことも容易に想像できる。収束までには相当な時間がかかるのだろう。

ただせめて、にわかでも(あるいはにわかだからこそ)わかるような、コンプライアンス的に非常にまずい点だけはなんとか改善される方向に進んでほしい。ガバナンスの概念がない特殊な文化的背景のもとで110年も続いてしまった後では、変革が困難を極めるであろうことは理解できるが、少しずつでもいい。
なによりも劇団員の心身の健康と権利が保証されることを願ってやまない。


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