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はじめの一歩

わたしたちのほとんどは、じつは愛を経験したことがないのだ。
経験してきたのは愛ではなく報酬である。
いちいち他者からの是認を必要とするような愛をほんとうの愛とよべるだろうか?
自己のたましいを育み、自分自身への慈しみのこころをもつことこそが、ほんとうの愛への第一歩である。

エリザベス・キューブラ・ロス


昨日、練馬は30度前後まで気温が上がって、今日は20度を切る。

寒いよ、いきなり。

昨日、一昨日は、「暑いよ、いきなり」、だったが。

気温や天気にいちいちモンクを言ってもしようがない!なんて余裕をかませたのは30代前半ころまでだな。

もう、まったくもって余裕がない。

そうなって、はじめて、寒いだ暑いだ言っていた、当時の自分から見た年寄りの気持ちがわかってきた。
夏場のエアコンの温度設定が低すぎると言っていた事務所の女性陣の気持ちも分かるようになってきた。
手足の先が冷えるし、なるべくならエアコンなしのほうが身体が楽だ、なんてことも思えるようになっても来ている。

仕事柄、お年寄りのお宅に伺うことが多い。
10年くらい前までだと、お年寄りのお宅に、真夏に伺ってもクーラーが入っていることは滅多に無かった。
クーラーそのものがないお宅が多かった。
マジか?これで生きていけるのか?と、ずっと思っていたが、まぁ、昨今の暑さは異常なのでエアコンは老若男女問わず絶対に必要だが、夏場25度でも暑いと思えた時代、エアコンがなくても過ごせたよなあの頃は、と思える。

さて、そこでだ、じゃぁ、モンクを言うな!って、思わなくなったのかというとそうもいかない。

口にはしないが、心ではちゃんと思っている。

「いちいち,寒いだの暑いだの言ってんじゃねぇよ」って😅

自分が痛い目にあって初めて、悲しい思い、辛い思いの人の気持ちがわかるようになる、とよく言われるが、どうもわたしの場合は、自分があった痛い目と他人様があった痛い目をきっちりと分けてしまう性分のようだ。
たちが悪い。

本当に、痛い目にあって、本当に苦しく、悲しい目にあったのなら、それをしっかりと自分の大事と受け止めることができたのなら、他者の悲しみや苦しみのただ中にある状況をみて、自らも悲しむことができるのだろう。
それは、たぶん、その他者の悲しみ苦しみは自分には分かることができないという、変わることもできないという中で、そのことを踏まえた上でどうしようもない、説明のしようもない悲しみとして受け止めるのではないかな。

で、わたしにはどうもそれができない。

人情というものが欠けているのか、一緒に涙を流すなんてことはまずできない。
そうなると、喜びに対しても同様だ。

激情的に歓喜したり、激怒したり、感情を顕にする人とその場に共にいると、どんどんシラケていく自分がいることが儘ある。

一緒に喜ぼう!
一緒に騒ごう!
一緒に怒ろう!
一緒に涙しよう!

そんなふうな空気に触れた瞬間にいたたまれなくなり、シラケてきて、その場を去りたくなったことも幾度となくある。

どうも、まだ他人事でしか生きれていないようだ。

自分の生活の喜怒哀楽ですら自分事にならないからこそ、他人の喜怒哀楽が分かることができないのだろう。

だから、自分事として自分を生きることがわたしの人生の目標でもある。

昔、言われたことがある。

なんで寺に生まれて、坊さんやってるのかわかるか?って問われ、
「それはな、生まれてから死ぬ瞬間まで、ずっと聞法しないと何をしでかすかわからない、それくらい業が深いからなんだ。普通の人は、自分の身内や友人や大切な人を亡くしたり、何か自分の中で抱えきれない悩みがあった時に仏法に出会って、これだ!と気付ける。確かに、これだ!に生涯であえない人もいるが、そういう人でも、出会えれば、その機会さえあれば、頭が下がる思いになれた。でもな、寺に生まれて、坊さんやっているようなもんは、これだ!が眼前にいくら転がっていようが、これが!の中に埋もれていようが、気づけない。そんだけ救いようがないからこそ、悲しみや、苦しみや、悩みを抱えた方々にチャンスを頂いて、そして朝から晩まで死ぬまで仏法に囲まれて生きにゃならんのだ。勘違いするなよ、一番救いがたいのはオレラだ」
こんなようなことを先輩に言われた。

その時は、なるほどね、いいこというじゃん、で終わって、いかにも解った風を装ってその後暮らしてきていたが、最近、痛いよねこの言葉、と思えるように少しなってきた。

いや、ほんと、わかんないよ。

仏教の最終目標は、自分自身に合掌礼拝できるようになる、ってことだ。

自分自身に合掌礼拝できるってことは、自分を自分たらしめる一切合切、それは自分にとって都合が良いとか悪いとか関係なく頭が下がるてことだ。

自分自身への慈しみが「第一歩」というのはそういうことだろう。

無条件で慈しみを自らに向けることでようやく一歩踏み出せる。

ってことで、わたしの歩みはひたすらスタートラインを探して彷徨っているってことのようだ。
はじめの一歩をふみだすにゃ、まずスタートラインに立たなきゃ始まらない。

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