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自分が飽きるな。

マンネリがぼく好きなんですよ。
「あ、またあれだ」ていうのがね。
毎回、それ、何回見ても面白いのが理想なんですよね。
マンネリって言われるのが、ぜんせん、怖くもなんともないですよね。
マンネリまでいくのが大変でしょ、だって。

             志村けん


先週の日曜依頼、一週間ぶりに法事での読経。

フルで声を出した。

そして、人前で話をした(法話)。

これだけ日にちが空いたのは、けっこう久々な感じがする。
月〜金、留守番しながらの事務だったので、ひたすら。

ま、毎度のことなんだけど(たまにあるのよね、一週間、法事がないって)、声の調子がつかめない。

車の中で、発声や発声代わりに歌を唄ったり、時々読経をしたりはしてはいるが、人前で声を出すのとは違うんだよね。
思わぬところで声がかすれたり、裏返りそうになったり、音が取れなかったり。
それも含めて、軌道修正や前の出した声をフォローしながら、久々の本番、楽しく、面白く、いい感じでやらせてもらえた。

これも、法事をしよう、という方がいなければできないことだし、この一年、参詣無しでの法事やLINEを使っての法事ってのもやったけど、そこに一人でも人がいるのといないのとでは、なんか違うんだよね、声の出し方や法話での間の量り方が。
法事に呼んでいただいて感謝。

先日、NHKに矢沢永吉が出ていた。

で、そのリハーサル風景をYAZAWAのYoutubeチャンネルで流しているけど、そこで矢沢が「みんなの顔見てやると、どこか本気モードのエッジが入るんだね。すると喉って枯れてくるんだな、って思うよ。おれ、ふだん一人でやってるときってぜんぜん枯れないのに」って言っているけど、なんとなくわかる気がする。

いっしょのことをやっているつもりでも、ちょっと違うもんだったりするのよね。
逆もある。
出しづらい音が、スコーンって抜けるように出たり、低音がブレなかったり。
おもしろいなぁ。

一日に3軒の法事をやって、毎回、同じお経を読んで、法話だって同じようなことを話ししているんだけど、毎回違うんだよね。
読経に関しては、毎回反省点と出しやすい、力が抜けた声が出る場所が違ったり、シャウトできちゃうときとそこまで高音に持っていけないときとか、いろいろ。
法話は、基本形はないし、台本もないけど、言いたいことは早々変わらないし、捉え方もそうそう変わらない。マイブームみたいのがあって、ここ数年はここんとこを伝えたいって感じで、それについてを話すんだけど、ベースは、毎回脱線するところが違う。
脱線は必ずと言っていいほどするね。
「note」といっしょ。
これこれこれについて話そう、と思っているんだけど、気がついたらまったく明後日の方向に話が行ってしまっていて、どう収拾をつけるかで焦ることしばしば。

ま、だから飽きないんだろうな。

でもさ、まだ、
「またおなじ話しているよ」
と言われんじゃないかって気を使ってしまう自分がいるんだよね。

いい話は何回聴いてもいい。
いい映画は何回観てもいい。
いい音楽も、おもしろいコントも、素晴らしい画も。

マンネリを恐れているってことは、未だなんもできていない証拠だな。

そういえば、写真を撮り歩いていても、毎回おんなじような写真しか撮れないって思えてしまうし、昨日桜のUPを載せたから今日は違う感じの、って選び方をしてしまう。
マンネリでもいいんだよ、って開き直りで言うのではなくて、いいもんはいい、それがマンネリというものさ、と言えない。

マンネリであればこそ受け入れてられる、と、言えるように成れるかどうかだな。

そういえば、「またおなじ話しているよ」と法話を聴いている限りは、その話の真のところがわかっていない、ってうちらの世界ではよく言われる。
本当に聞けたら、毎回同じことを言い当てられ、毎回できてない自分に遇わされ、毎回目覚めがあるのだから飽きるわけがない。
そんなふうに聞けたことすらない。

まだまだ、やることが多いようだ。

飽きている暇はないってことだな。

てことで、今日は、敢えて、昨日と同じような写真をTOPに載せておこっと。

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