客観性の照らさぬ闇へ/蓋然性
現代日本には、『無宗教・無信仰』と自認する方が多くいるだろう。しかしながら、当人も自覚しない内に信仰している観念もある。
中でも広く支持されているのが〈客観性信仰〉だ。
※ここでいう『信仰』は、『本人はそれが正しいと当然に考えており、疑うことをしないかしたくないと感じる観念』程度の意味。宗教という体裁はあってもなくても信仰と呼びうるものとする。
最初に明言しておくが、筆者は客観性を『無視してはならない重要な視点』と位置づけている。ただし同時に強調したいのは、
客観性は万能ではない
客観性は唯一ではない
ということ。
客観性を重んじるだけなら何ら批判には当たらないが、もしもある個人の中で唯一の(排他的な)評価基準になっているなら、それは一種のカルトである――他者への斥力として働く点で。
主観を排除し客観に徹した結果、『わからない』としか言えないことは珍しくない。この時、問題設定を見直すなり調べ方を変えるなり、なんとかして客観的な結論を出せるならそれが望ましいだろう。
しかしそれも叶わないならば、客観性以外の視点を導入するしかない。
選択肢のひとつは主観性だが、社会的政治的な問題には不適切なことが多い。
それよりはまだ、〈蓋然性〉の方がマシだと考える。
本稿では、蓋然性という低く見られがちな観念を肯定的に紹介する。以降ではいちいち触れないが、蓋然性にも多くの穴があることは当然の前提だ。
また、蓋然性も選択肢のひとつでしかない。筆者の最も言いたいことは『誰しも複数の評価軸を持つべき』であって、それを何にするかは幾らでも正解があるのだから。
(本稿では詳しく触れないが、感情も重要な基準のひとつではある)
◆本稿における定義
辞書で『蓋然性』を調べると、次の順で載っていることが多い。
ある推測が、『(確実ではないとしても)それなりに確かだ』と考えうる度合い。そのように考えられる根拠が揃っていること。
ある推測が、『(実際そうなるかは何とも言えないものの)そうなってもおかしくない』と考えうる度合い。推測が実現するための前提条件が揃っており、はっきりした阻害要因が見つかっていないこと。
英語を当てるとしたら、確率や成立性のような定量的・客観的評価は1.に近く、(単にありえるというだけの)可能性が2.だ。
本稿が推していきたいのは後者である。
(『1.の蓋然性が高い』ことと『客観性が高い』ことは示す意味内容が似通ってしまう。本稿の目的は客観性以外の視点を示すことなので、以下では2.の意味でのみ『蓋然性』を用いる)
事例:ドミノ倒し
『あるドミノ板を倒したら、連鎖的に最後の板まで倒れ続けるだろう』という推測を例にとる。地震や小動物などの外的要因は考慮しない。
また、『実際に倒してみれば分かる』は禁じ手とする。
○客観的に厳密な推測
不可能ではないがそれなりに手間がかかる。
並べられた全てのドミノ板の正確な位置と向きを計測すれば、後は板のサイズや重量バランス等を加味してシミュレーションができそうだ。
そのシミュレーションで最後まで倒れたなら推測を支持する客観的根拠と言えよう。
○客観的だがやや雑な推測
上のようにしなくても客観的な論拠にはなりうる。例えば、
並べ終えた本番環境で、板同士の間隔だけ計測する(情報量で上に劣る)
計測結果と同様の間隔で、10枚前後の短いテスト環境を作り実験する(検証規模で上に劣る)
このような手法にも、精確さでは劣るにせよ一定の信頼をおけるし、それは客観的と呼べる。
○客観性は無いが蓋然性はある推測
例えば次の2つが揃っていれば良いのが蓋然性という判断基準だ。
コースを並べる作業は完遂している(推測が実現する前提)
ストッパーは全て撤去済である(推測を妨げる阻害要因の否定)
この程度。『最後まで倒れてもおかしくない』とはこれぐらいの(不)確かさを指している。
逆にこれらさえ備えていない場合(並べていない区間があるかストッパーが挟まったまま)はほぼ確実に途中で止まるだろう。
事例:天気予報
○客観的に厳密な推測
考えうる限り最も厳密な予測をするには、地球全体の気体分子の位置とベクトル、世界各地の海水温なども細かく把握しなければならない。
ドミノ板と違って現在の技術では不可能であり、また時代が進んだとしても局地的な天気予報にはコストが過大だろうと考えらられる。
○客観的だがやや雑な推測
厳密な計算ではなく、過去との近似を大きな手がかりとするやり方。
過去の実測記録から、よく知られたものだと『冬型の気圧配置(西高東低)』のようなパターンを無数に抽出しておき、最新の周辺気候と近いものを参照する(※大雑把な説明)。
この種の予測の中には、エルニーニョ/ラニーニャ現象のように指標とする値(ある海域の海水温)とそこから導かれる予測(各地の気象変動)の間を繋ぐ機序が未解明な場合もあるが、それでも実測に基づく統計は客観的な根拠として強力だ。
○客観性は無いが蓋然性はある推測
台風がすぐ近くまで来ているので明日は荒れるかも知れない、と考える。
◆蓋然性が得意とするのは
上の説明では何とも頼りない推測に感じられただろうか。しかし現実に、リスクに備えるために蓋然性に従うことは珍しくない。
近くにまで迫った台風が、今後急速に弱まるか進路を変える確率が(客観的に)高いと見られていても、農家の方や電力会社などは最悪の直撃コースを想定して被害に備えるだろう。
またドミノ倒しの事例で見た蓋然性の考え方は、工場などにおける事故防止プロトコルでは一種の常識だ。『起こりうる事故はいつか起こる(だから事故が起こりようのない作業環境を作ろう)』といった形で。
客観性に基づくなら
確率的なリスクへの対処において、客観性が全くの無力ということはない。代表的な例は保険だ。
こういったものに加入すべきか否かという設問ならば、数値・論理・客観の出番である。
年間平均売上が$${x}$$円の果樹園が1年間に台風被害に遭う確率が$${y}$$%だとして、被害額の期待値を$${x×\frac{y}{100}}$$円などと置けば年間保険料との比較がし易くなるだろう。
――ただし人間の感性は、確率やリスクを扱うのが苦手だと言われる。
確率にまつわる錯誤
人は錯誤する。それはその個人が愚かだからではなく、人類に広く見られる性質だ。や人愚滅。 幾つかの例を紹介しよう。
○モンティ・ホール問題
アメリカのテレビ番組――司会を務めたのがモンティ・ホール――で行われていたあるゲームは、プレイヤーに2つの選択肢(A/B)がある。
ある雑誌に、『選択肢Aを選ぶべきだ。Bより2倍も勝率が高い』という解説が載る。この解説は、直観的にはとても奇妙に感じられた。
非常に多くの反論が寄せられる。そこには名だたる数学者による批判も複数。批判側の主張は『AもBも勝率は変わらない』。感覚的にはこう考える人が大多数だったのだ。
解説を書いた作家が複数回にわたって反論・説明を行っても批判側は納得しなかった。
結果的には最初の解説が完全に正しかった。
……という、直観と理論が完全に食い違った例のひとつである。これは呪術的直観が蔓延していた中世ではなく、1990年アメリカでの出来事だ。
○ランダム性の錯誤
次のような数の並びを見せられて、
$${[1,2,2,5,6,5,2,4,1,4]}$$
『これはサイコロを10回振った結果です』と言われると、人はそれを疑う傾向がある。
この数列は10回のうち3回も2が出て、逆に3は無い。
本当にランダムなサイコロなら全ての目が1/6ずつ出るはずだ。
つまり(あるべき確率に比べて)偏っている。
よってこれはランダムな数列ではない。
このような考えは、意識的に警戒しなければ陥りやすい錯誤だ。
3.までは正しいが4.で間違っている。たかだか10回の試行でこの程度の偏りが出ることは全く不自然ではない。回数を増やすほど分布は確率(1/6)に近付くが、それは試行を重ねた結果であって、この程度の回数では参考にならないのである。
○『泣きっ面に蜂』の心理
確率的な偏りを感じた時――たとえば不幸に相次いで見舞われた時、人はそこに連続性や物語性を見出しやすい。
直前にやった(何か悪い)行いと結びつけて、『アレのせいで罰が当たったのかも』などと考える子供は珍しくないし、大人でも『今日は何をやっても駄目な日』とか『誰かが自分を陥れている』とか『泣きっ面に蜂』などと言って最初の不幸と次の不幸を一連のものとする。実際には何の相関関係もない独立した不運かも知れないのに。
このような認知はクラスター錯覚の一種としても説明できるが、心理的なドミノ倒しが起こっているケースもある。
最初の不幸によって心が沈んでいなければ、第二の不幸が単体でやってきていたなら、嘆く程のことではないと流せたかも知れない。そもそも不幸とさえ認識しなかったかも。
逆にとても幸福な時は、なんでもない日常が善意と幸運に満ちた素晴らしいものに感じられる。一般的に不運とされることでもそう受け取らないから、本人の認識上は良いことばかりが続くのだ。
定量的な評価ではない幸不幸の切り分けは、その瞬間の感情が大きく左右する。これは客観性信仰の価値観から言えば錯誤と評されるだろう。
しかし実際に、『悪いことは重なるものだ』的な慣用句は世界中に存在する。人の心理がそのように働くことは、統計的――というのは苦しいが、少なくとも文化人類学的には、真なのである。
錯誤は避けがたい→結果
こういった誤認は賢さや考え方の問題ではないと考えられている。錯視を訓練では乗り越え難いのと同様、計算をせず感覚に基づいて判断する限り、どんな賢者でも間違えうるのだと。
よって最も堅実な対策は『確率に関しては感覚を信用しない。計算してから判断する』こととなる――が、いつでもそうできるわけではない。時間的・情報的な制約が厳しい時もある。
このような時は、リスクを大きめに見積もって被害を前提とする考え方もそれなりに合理的だ。
確率の大小など算定できない、とすれば。
争点は『ありえるか/ありえないか』――つまり蓋然性基準――に絞られるだろう。
◆蓋然性に基づく法的判断
法制度においても蓋然性が参照されることがある。
表現の自由/知る権利
表現の自由界隈では度々参照される、岐阜県の青少年保護育成条例についての最高裁判決(1989年)。
有害図書を規制する条例の内、自動販売機で販売することを禁じた部分が、『表現の自由を定めた憲法21条に反するか否か』が審理された。
主な争点は『有害図書は青少年の性犯罪あるいは非行を誘発・助長するか否か』。
最高裁判決はこの争点について、客観性を否定しつつ蓋然性を肯定し、条例は合憲とした。
実際の判決文から引用する。
『有害図書が性犯罪を誘発する客観的な証拠は無い』、と述べている。しかし同時に、
と述べる。
つまり、『この条例は青少年の知る権利を制限するものではあるが、必要限度内におさまる蓋然性があれば合憲として良い』という判断のようだ。そのため蓋然性を支える根拠には様々な要素が挙げられるが、本稿では『客観的な証拠が無いのに性犯罪を誘発する蓋然性があるとは?』という点に絞って紹介しよう。
能力と個人差
上の見解にはなかなかドキリとさせられる。
表現の自由や知る権利といったものは、何らかの能力がなければ制限されると述べているのだ。
最低限の判断能力が求められること自体は理解できる。
契約書を読んで理解する能力が無いと見做される子供の署名に、法的実効性が認められないのは確かに合理的だろう。
もっと極端な例で言えば、性教育の教科書とポルノを区別できない人がポルノに触れた場合、性交渉や避妊に関して誤った知識を身に着けることも十二分に蓋然的だ。
(教科書みたいな体裁をして大嘘が書かれているものもあるが……それはさておき)
また、表現の自由がある種の自己責任(表現の受け手が各自に自衛や自制を行うこと)を前提にしていることも間違いない。
かといって、それを理由に自由が制限されるというのは個人差を無視している。
子供だってフィクション上の行為を現実でそのままなぞるわけではないし、逆に成人していても真似してしまう個人はいる。
年齢で区切るのはただ便宜上の都合――客観的に測ることが難しいから――に過ぎないのではないか。
便宜上。
客観的に測定する労を省略するために。
これはとんでもないことだと感じる……かも知れないが。
ここで一旦、知る権利の話題から離れる。後で戻ってくるので、次の事実について考えて欲しい。
我々はこのことに疑問を抱いているだろうか。
誰もが知る常識でありながら、当然のものと受け入れている方が多いように思う。
現に蓋然性に頼っている
日本では――日本に限らず多くの国でも――、選挙権と被選挙権は年齢によって制限されている。政治に参加する権利は、何より平等でなければならない人権だろうに。
何故か?
――子供には必要な能力が欠けるとされるからだ。
そこに客観性はあるだろうか?
――無い。
客観性は万能ではない。
次のようなことを客観的に証すことは不可能と考えるし、実際に計測されたこともないはずだ。
政治に関わるための能力は成長と共に伸びる
ある年齢に達する頃には充分な能力が身に着いている(者が多い)
その年齢未満では充分な能力が身に着いていない(者が多い)
だから、『18歳(20歳)や25歳・30歳になれば政治に関わる能力は備わっているだろう』との推測は客観的ではなく蓋然的だ。
(なお、『法的責任能力が無いのだから政治参加能力も無い』とする考え方は循環参照である。『ならば法的責任能力の年齢制限に客観的な根拠はあるのか』が問われるだけだ)
○客観的に測るとしたら想定される課題
一応、客観化ができるかどうか考えてみると――大きな問題だけでも、4つ。
『選挙に関わる能力』の定量的な定義
投票/立候補に充分な能力の閾値(合格ライン)設定
評価方法とその方法に対する評価
人権問題
1.2.は指標の設定で、これが無ければ測りようがない。
仮にそれをペーパーテストで測るとして、問題によって高齢者有利/若者有利/経営者有利などの偏りは容易に持たせられるから、公平性を評価して政治的に合意しなければならない点が3。
また、そもそも能力によって権利を制限することが(特に知的障害者や学習障害を持つ国民の)人権侵害ではないかという懸念が4。
いずれも、特に3.4.は政治的なテーマだ。人が恣意によって選び決める領域となる。よって客観に徹することは構造的に難しい。
○蓋然性に頼っても良い理由(のひとつ)
再三述べているように、客観性を確保できるならそうすべきである。
ではそれができない時は常に蓋然性を採用して良いのかと言えば、そうではないだろう。蓋然性の有無を考える時は連言錯誤のような誤謬にも陥りやすい。
選挙権・被選挙権について言えば――年齢による制限は、時間という点で平等なことを指摘できる。
確かに人権を制限しているが、規定年齢までに亡くならない限り必ずその権利が認められる
現在の年長者もかつては制限されていた
親が子供に、『今すぐはダメだけど必ず認めるから今は我慢しなさい』などと言うようなものだ。
岐阜県条例の合憲判決に戻って
選挙権から青少年の知る権利に話を戻そう。
○客観的な推測の可否
『有害図書は青少年の性犯罪あるいは非行を誘発・助長する』、この推測を客観的な根拠に基づいて肯定または否定することはできるだろうか。
ドミノ板や天気予報の喩えで触れた中の、『厳密なレベルの客観性』を得ることは不可能だ。大気中の分子同様、人の心はブラックボックスであって、例えば『ある人が性犯罪を犯さないのは、性的欲求が薄いからか/欲求を抑えているからか』なんて見分けはできないからである。
ならば再現実験や統計に基づく『やや雑な客観性』はどうだろう。
『非行を誘発・助長する』という推測を肯定することならできるかも知れない。妙な誤魔化しを含まない(と第三者も認める)調査で、ポルノに触れない対照群と有意な差が現れたなら、それは推測を支持する根拠となりえる(ただし筆者の知る限り今のところ、そのような差は見つかっていない)。
対して推測の否定は難しい。対照群との有意差が出ないだけでは、『本当に有意差が無いのか/そこにある有意差を検出できないだけなのか』分からないからだ。
ある調査をして差が出なかった、だから差は無いのだという論理は、『有害とされた図書が青少年に悪影響を与えているならこの調査で必ず検出される』ことを前提にしている。ならばまずはその調査が適切であり、差が在るならば確実に検出できることを証さなければならないが……。
こちらもまた、今のところ客観的に示されてはいないものと認識している。
となると、残るは蓋然的な推測となるわけで。
○蓋然性採用の可否
岐阜県の青少年保護条例では、有害図書とされたものを成人が買うルートは残されているため、選挙権と同じ平等性を指摘できる。
判決文も『大人になれば買えるのだから』という姿勢だ。
あくまで子供の間だけなので、といった話。
◆まとめ:客観性は不完全
客観性を確保しようのない領域がある
そこには蓋然性などが導入される
(本稿では詳しく触れていないが)他の価値観は幾らでもある
単一の価値観で全てを切り分けられるほど、現実は単純ではないと考える。
また既に起こったことに対しても、完全な客観性を得られないことは今後ますます増えるかも知れない。
画像合成にせよ車の自動運転にせよ、AIの活用領域が拡がっていくことは間違いないと思われる。
そしてAIの判断が法的な問題に/あるいは証拠になった時、『AIが何故そのような判断をしたのか』を人間が理解することは原則不可能である。変数はあまりに多く、その殆どは人間の感覚と無関係に抽象化されているので。
どう対応していくにせよ、ひとつの価値観のみに拘り抜くべきではない。
◇補足:筆者の立ち位置
本文では分かりにくい点を整理しておく。
○表現の自由関連
原則として表現の自由を支持する
子供へのゾーニングなどは表現の自由を侵害する
侵害ではあるが、認めざるを得ないのではないか
○選挙権の年齢制限など
客観性の無い、蓋然的な規制が行われているにも関わらず、本文では暗黙の内に追認してしまっている。
これは『蓋然性によって選挙権や被選挙権を制限することが違憲だとしたら、じゃあどうするんだよ』が筆者には全く思いつかないからだ。
乳幼児にも権利を与える? ナンセンス。
何らかのテストを課す? 不平等。
何か良い代案があれば意見を変える可能性もあるが、少なくとも現時点では、年齢による制限という非客観的で蓋然的な規制が、取りうる中でのベストと考えている。
以上
Twitterだと書ききれないことを書く