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【一幅のペナント物語#48】蘇った姿、やはり極楽浄土のごとし

◉東日本大震災がもう13年前の出来事になってしまったことに、あらためて驚く。光陰矢の如し。それでもあの日の記憶は、被災地の方々にとって鮮明に刻まれたままなのだと思う。数多のストックの中から三陸界隈のもので見つかったのは、何種類かの「松島」のペナントに混じっていた「浄土ヶ浜」のペナント。赤いクラウン型のタグと、サテンのような生地にカラープリントされているのは、昭和40年代後半から50年代前半あたりのしつらえか。写真がブレているように見えるのは、そういう特集な加工がされているせいで、決してスキャンの際のミスではない。立体的に見えるような効果を狙って作られたものだ。このシンプルなペナントを見つけて、あの日の浄土ヶ浜はどうだったのか、気になって調べてみた。

◉当時、浄土ヶ浜のレストハウス副支配人だった方のアーカイブがNHKにアップされていた。

やはり、ここにも6mほどの津波が押し寄せたのだ。レストハウスは呑み込まれ、白砂の海岸は無数のがれきで埋め尽くされたのだという。

被災後(2011年3月20日)の様子(出典:時事通信社)

震災のがれきを撤去した後も、地震による海底変化の影響か、倒木などが漂着したり、冠水で浜の石が歩道に打ち上げられるようなことが頻繁に起こるようになってしまったという。これではいかんと地域の有志の皆さんなどが中心となって地道な整備作業を数年に渡って続けてこられた結果、霊鏡竜湖和尚が300年も昔に「さながら極楽浄土のごとし」と称賛した美しい浜辺が蘇っているそうだ。

◉僕も2011年後半に立ち上げられた期間限定の震災支援事業で事務局長を務めさせてもらい、まだ復興只中の現地をレンタカーで走り回ったことがある。西日本からバスを乗り継いで盛岡に入り、そこで車を借りて、太平洋岸を南下しながら会津まで、被災地の情報を集め、支援ニーズを掘り起こす仕事に就いていた。震災からは既に1年が経過していたが、陸前高田の町はまったくの更地のままだったし、女川では数階建てのビルが横倒しで野ざらしになっていたし、気仙沼では巨大な漁船が街の中心部に打ちあがったままだった。あちこちに仮設住宅街が出現していたが、まだ学校の体育館などで暮らす人もいた頃だ。本当に街はその姿を取り戻せるのだろうか?と思っていた。けれど、被災地の皆さんはそれを着実にやり遂げていた。まだまだ途上の地域もあると思うけれど、前に進んでいるのは間違いない。あの頃、中高生だった世代が、今、自分たちの故郷の未来を背負って活躍し始めていることも知っている。

◉浄土ヶ浜の印象的な岩の連なりは、幸いにして地震では大きな被害を被っていなかったようで、その山水画のようなシルエットは変わりなく、悠久の時を超えて佇んでいるように見える。またいつか、あの日訪ね歩いた東北の街々を訪れてみようと思う。

頑張ったなあ東北。
頑張ったなあニッポン。
頑張れ頑張ろうばかりだと疲れるから
たまには立ち止まって
讃え合う時間があってもいいんじゃない。

撮影:MrMoon様(Photo ACより)

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