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【一幅のペナント物語#26】奥能登の地へ、必ずまた行くんでござんす

◉実に楽しいペナントである。ここまで情報量の多いペナントも珍しいのではなかろうか。トップ画像ではちょっとわかりにくいと思うので、僕がフフフとなってしまった部分をクローズアップしてみた。

(左上)トランジスタな水着美女、(右上)「ござんす」に違和感しかない
(左下)「変体」じゃないってことは「変態」ってことか、(右下)恋路海岸気になる

能登半島を大きな地震が揺さぶってから、はやくも1か月が経つ。幸いあれ以来巨大な地震や津波は起きていないものの、インフラ復旧までまだ時間もかかる地域も残っているし、多くの尊い命と暮らしを奪われた人たちの傷跡はまだ乾いていない。けれど能登は"終わった"場所ではない。時間はかかるだろうけれど未来に向けて歩み出している人たちがいる。このペナントに描かれたユーモラスな地図を眺めながら思った。なぎさドライブを恐る恐る走った思い出も、輪島の職人さんたちを訪ねて話を聴いた思い出も、忘れられない旅の記憶だ。温かくなったら、この地図を頼りにもう一度行こう。

◉「腰巻地蔵」がどうも気になって仕方がないので調べてみたが、面白い言い伝えが残っていて興味深い。恋した北前船の船頭と別れたくない遊女が、自分の腰巻を地蔵に当てるとたちまち海が荒れ、出港を延期させたのだそうだ。こういう話、全国の北前船寄港地にいろいろありそうだ。

◉そして「恋路海岸」だ。こちらもドキがムネムネするような謂れがあるのかと思いきや、その昔、深い恋仲になった男女がいたが、恋仇の策略で男のほうが海で命を落とし、女のほうも後追って身を投げてしまうというお話がこの名前の由来なのだという。いやいや絶対に「恋路」ではないだろう。「悲恋海岸」とかならまだわかるけど。この辺りの海岸を「えんむすビーチ」とも言うそうだが、ちと強引だなー。それくらい激しい恋愛をせい!ということかな。二人が逢瀬に使っていたという弁天島の景色は、出雲の稲佐の浜っぽくて、親しみを感じる。

◉そうそう。このペナント、ビニールパッケージに包装されたままの状態であったのだけれど、そのタグの部分にこんな書き込みがあった。

「55年8月3日~5日 茂6年 守5年」

おそらく昭和55年の夏休み、子どもたちと能登を巡った親御さんが記念に書き込んだものだろう。この当時に10歳、11歳というと、ちょうど僕と同い年くらいだな、茂くん、守くん。今はどこに暮らしているのか。元気でいるなら君たちもまた能登を訪ねてあげて欲しいな。


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