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【一幅のペナント物語#53】らくがきのようなユルい味わいで描く"天下の険"

◉ひと目見て惚れこんでしまった「箱根」ペナントをご紹介しよう。どう見ても、あまり気合いが感じられない「箱根」の金文字の横に、さらに輪をかけて気合いの入っていない人夫が、キセル吹かしてご機嫌な菅笠の爺さんを乗せた馬を引いている。遠くには富士山、その手前は芦ノ湖だろうか。富士山のデフォルメ具合と、左右の山のタッチの落差も気になる。ボーっとしているように見える人夫と、うつろな目をしている馬を見ると、この爺さんの行く末がとても気になるではないか。

◉左下の街道道しるべには「箱根八里」と「箱根の山は天下の険」と書かれている。滝廉太郎が作曲したことでも知られる唱歌「箱根八里」は、1901年(明治34年)に誕生しているので、もはやこの道しるべもオーパーツである。全体に漂う微妙な余白の間も含めて、味のある作品だなあと僕は思ってしまったが、昭和の当時は、値段が安いこともまたペナントが人気になった理由と聞くが、果たしてこれを「欲しい!」と思った人がどれくらいいるのだろうか。

「箱根八里」
作詞:鳥居 忱 作曲:瀧 廉太郎 編曲:林 光

箱根の山は 天下の険(けん)
函谷関(かんこくかん)も物ならず
万丈の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳え(そびえ) 後(しりえ)に支(さそ)う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶(なお)闇き(くらき) 杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径は 苔滑らか
一夫関(いっぷかん)に当るや 万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する 剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に 足駄(あしだ)がけ
八里の岩根 踏み鳴す(ならす)
斯く(かく)こそありしか 往時の(おうじの)武士(もののふ)

◉「箱根八里」というのは良く耳にしてきた言葉だし、「大変な山道、峠越え」というイメージだけはあるのだけれど、西日本在住の僕は実際に目の当たりにする機会も無く、どういうルートなのか気にかけたこともなかった。国交省のサイトによれば、

箱根は東海道で最大の難所として古くから恐れられていたところです。藤原為家の側室阿仏尼は『十六夜日記』(いざよいにっき)で箱根路のことを「いとさかしき(大変険しい)山をくだる、人の足もとまりがたし、湯坂とぞいうなる」と記しています。

鎌倉時代には、箱根山を越える道には、京から下る場合、三島から御殿場を迂回して足柄峠を越え、関本から国府津へ抜けるいわゆる「足柄道」と、直接箱根山を登り、芦ノ湖を経て箱根権現を通り、湯本へ下るいわゆる「湯坂道」と呼ばれる2つのルートがありました。

江戸時代になると、徳川家康が街道整備に着手する中で、箱根山越えの道は大きく変更されます。いわゆる「箱根八里」とよばれるルートです。この道筋は、江戸から京に向かう場合、湯本の三枚橋で早川を渡り、須雲川沿いを登り、畑宿を経て芦ノ湖畔に出る道です。途中、険しい坂道が続き、山道には茶屋が13カ所もありました。

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所「東海道への誘い」HPより

だそうで、歌のルートを実際に辿ってみたという、音楽ライター・小島綾野 さんの記事(下記)は、読んでるだけで息が切れそう。そんなアップダウンの激しいこの約32kmを、昔の人たちは1日で踏破した人もいると知って「うそだろー?」とムサシ刑事ばりに呟いてしまった。

箱根駅伝の5区・6区は、この箱根八里の小田原~箱根間と、ほぼ同じルートを走っていると想像するだけで、こむら返りを起こしそうだ。

そんなハードな「箱根」の道行きを、あんなのんびりなタッチでペナントにしてはいけないのでは? と改めて思う。2018年(平成30年)には日本遺産にも認定されてるんだぞ。まあ、この人夫さんには何の罪も落ち度もないのだけれど・・・

しかし、見れば見るほどやばい・・・

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