見出し画像

『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』一部公開

 こんにちは。2022年6月1日に新しい書籍を出しました。
 当然ながら、この新書をたくさんの人に買って欲しいと思っています。そんな中、各社から、何か新書にまつわる記事を出しましょう、というありがたいお話をいただきました。とても嬉しく思っていたのですが……。
 実際に打ち合わせてみると、ほとんどのウェブ媒体さんが「抜粋記事が欲しい」とおっしゃるのです。
「抜粋記事」とは、本の中からある部分の文章を抜き出して作成する立ち読み的な記事のことです。
 前作『つけびの村』刊行からもうすぐ3年になりますが、その間に新刊紹介の方法は大きく変化していました。最近は、ウェブ媒体で新刊を紹介する方法として「抜粋記事」がとにかく大流行りしています。手軽に作れて、バズれば本が売れる。媒体と著者、どちらにも旨味があるという理由です。
 どうやら、あまりにも旨味があるようで「抜粋記事」ばかりが求められてしまいます。
 とはいえ、ウェブ記事だと文字数は限られています。たとえば1万字ある原稿から、ところどころ抜き出して2000文字とかに構成するので、必ずしも同じ読み心地にはなりません。
 また、多数のウェブ媒体で、頼まれるまま、それぞれ抜粋記事を出すと、もう出すものがなくなってしまいます。
 そのため何社かに「せめてインタビューとかになりませんかねえ」と交渉するも、「だったら結構です」と記事のお話自体がなくなってしまう始末。
 確かに旨味はあるかもしれませんが、モヤモヤします。
 だったらウェブ媒体に「抜粋」を出すのではなく、自分で、特定の章の「全文」を公開しようと思うに至りました。一時的に無料で公開、時間が経ってから100円にします。
 新書『逃げるが勝ち』第一章と第二章の、尾道水道を泳いで渡った男の話です。どうぞお読みください。気になったらどうか買ってほしいです。1000円でおつりがきます。

まえがき

逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白 目次
(全文公開パートを太字にしています)

序 章 ● 暗がりに目を向ける──
小説家・道尾秀介との対話 7
メディアは「物語」を欲する/リアルとリアリティ
緑色のうさぎ/事実は、小説より奇なり
第1章 ● 丁寧すぎる犯行手記──
松山刑務所逃走犯 21
すいませんでした/刑務所ってこと忘れてるな/14枚の便箋/16頭の警察犬
潜伏先に警察が入って来た/脱出/月に一度訪れる特別な時間
第2章 ● めっちゃ似とる──松山刑務所逃走犯 49
なぜ逃げた?/何が変わったのか/捜査への不満
出てきたら、ご飯食べさせてあげるのに/真面目な人間になりたい

第3章 ● 自転車で日本一周──富田林署逃走犯 71
身柄拘束後に逃走する者たち/誰もいない面会室
警官は、アダルト動画に夢中/キャラ設定/職務質問
メディアはどう報じたか/浮上した女装説
「逃走犯とは風貌も違うし、2人組だし」/君は第1号だから
ウサギの刺青/あっちのほうが怪しかった
第4章 ● 手記を得る──富田林署逃走犯 103
幾度となく職質をかいくぐる/交渉開始
謎の犯罪者/1億円の保釈保証金
サイクリストの聖地に/優しい人と出会う旅のコツ
第5章 ● 最強の男──白鳥由栄の逃走 127
4度の脱獄に成功/網走監獄/初めての脱獄
針金を曲げて手製の鍵を作り/〝ヤモリ〟のように天窓によじ登り
死ぬかと思った/味噌汁を松材に垂らして/自分で肩を外せる
第6章 ● 必ず壊せる──白鳥由栄の逃走 151
カゴの鳥/「塀の外に出たら、死んでも俺の勝ちだ」/〝おもしろい〟犯罪
終 章 ● 逃げるが勝ち? 169
だまし討ちじゃないか!/小中学校45校が休校
「逃走罪」では裁かれない/保釈保証金の意味
日産のゴーン元会長は国外逃亡/遁刑者たち
「人質司法」から「保釈拡大」へ/保釈後の生活が〝ユルい〟日本
日本の司法が「劣悪」なわけではない/精密司法とは/「自白偏重主義」の功罪/どこまで監視すべきか/文化の反映/リスクへの柔軟性


第1章 丁寧すぎる犯行手記──松山刑務所逃走犯

 刑務所と聞いて、皆さんはどのような場所をイメージするだろうか。
 高い塀や有刺鉄線に囲まれた敷地内で、刑務官の眼が光るなか、臭い飯を食べ、工場で刑務作業に励み、鉄格子の中で眠る……。それもおおむね正しいが、実は日本には〝塀のない刑務所〟が存在する。
 有罪判決が確定して刑務所に入るとき、彼らはどのような罪を犯したのか、再犯か初犯か、凶悪犯罪かそうでないかなどにより処遇指標を指定され、その指標に合った場所で受刑生活を送る。途中で処遇指標が変わることはあるものの、入所は原則として模範的な受刑者のみである。
 正式には開放的処遇施設と呼ばれる塀のない刑務所は、社会に近い環境で更生を図ることを目的としているため、管理が比較的緩やかなことが特徴だ。
 もともと、日本にはこのような施設はなかったが、1955年に国連が開放施設について『在監者の自立を信頼しているというその事実によって(…)もっとも望ましい条件を備えている』などと規定した「被拘禁者処遇最低基準規則」を決議したことから、日本でも次々に設置された。
 受刑者らは施設内にある工場や農場で作業を行い、集団生活を送る。千葉県の市原刑務所、網走刑務所・二見ケ岡農場など、国内には現在、4ケ所の開放的処遇施設がある。そのひとつ、松山刑務所大井造船作業場から逃げ出し、日本中を騒がせた男がいた。
 2018年のことだ。

大井造船作業場・新来島どっく。塀のない刑務所ということを知らなければ、ただの工場に見える

すいませんでした

 大井造船作業場の開所は、1961年。瀬戸内海に面した愛媛県今治市の民間造船所「新来島どっく大西工場」内にある。集められるのは原則として、初犯で刑期が10年未満、おおむね45歳以下で協調性がある模範的な受刑者たちだ。
 彼らは、敷地内にある5階建ての寮舎「友愛寮」で共同生活を送りながら仕事場に通う。寮の部屋に、鍵や鉄格子はない。受刑者らは午前6時半に起床。点呼や朝食を終えると、刑務官と共に持ち場へ向かい、造船所の一般社員と混ざって溶接作業などをする。社員とはヘルメットや作業着の色が違うが、ほとんど同じ仕事をこなさなければならない。午前8時から午後5時まで働き、夕食や入浴、自由時間ののち午後10時半に就寝する。
 約120件もの窃盗や建造物侵入の罪で懲役5年6ケ月の判決を受け、2015年に松山刑務所に入所した野宮信一(仮名・以下同・当時27)が、大井造船作業場(以下、大井)に収容されたのは2017年12月だった。ところが、それから半年も経たない翌18年の4月8日、午後6時5分。野宮は寮の1階、廊下の北側にある窓から逃走した。
 大井の職員が気づいたのは、逃走から約1時間近くが経った午後6時50分。寮内を巡回中、受刑者同士で行われていたミーティングで野宮の姿が見当たらなかったため、捜索が始まった。
 そして午後7時1分ごろ、捜索中の職員が1階、廊下の北側にある窓が開錠されていることを確認した。その向かいの更衣室内に設置された野宮の靴箱には靴がなく、代わりに「すいませんでした。」と書かれたメモ紙を見つけ、110番通報するに至った。監視カメラには、午後6時8分ごろに野宮が寮の建物外の敷地を走り去る様子が映っていた。
刑務所ってこと忘れてるな
 誰にも気づかれることなく窓から寮を飛び出し、フェンスを乗り越え敷地外に出た野宮は、民家から盗んだ乗用車を走らせて、四国を脱出。道路で結ばれた離島の向島に向かい、無人の家屋に潜伏した。その後、瀬戸内海の尾道水道を泳いで本州側へと渡った。身柄を確保されたのは同月30日、向島から西に65キロ離れた広島市内だった。
 法務省矯正局によると、大井を出所した元受刑者が再び罪を犯して刑務所に入る割合は6・9パーセント。全受刑者が再び刑務所に入る割合は41・4パーセントであるから、格段に低い。模範囚が多く、出所後に再犯する者も少ないということになる。松山刑務所での生活態度を評価され大井に移された野宮も、20年1月には刑期満了を迎える予定だった。
 受刑者の逃走は、「保釈中の逃走」とは扱いが異なり、逃走罪に問われる。あと1年9ケ月を真面目に務めれば逃走せずとも自由の身になれたのだ。逃げれば、また刑務所に入ることになる。それなのになぜ、彼はリスクをとったのか。
 23日間にわたり逃走した野宮はのちに単純逃走罪や窃盗罪で起訴され、同年9月28日に松山地裁で懲役4年の判決が言い渡された。控訴せず確定している。判決直後、執筆してもらった手記には、逃走に至った理由が書かれていた。
 と、その前に、まずは容疑者や受刑者と文通するための方法について簡単に記しておきたい。彼らと手紙のやりとりを行うには、まず居所を調べる必要がある。逮捕直後の容疑者段階であれば、その身柄は一般的に警察署にあるが、起訴されて被告人という立場になれば、拘置所や拘置支所などに移送される。ただ、これは地域により運用がまちまちで、起訴後も身柄が警察署に置かれたままということもある。
 警察署や拘置所に問い合わせても、所在を確かめることはできない。職員は教えてくれないからだ。何もつながりのない相手とコンタクトを取る方法はひとつだけ、いちかばちかで手紙を送ってみる。野宮に対してもそうだった。見当をつけた施設の住所に、そこにいるであろう容疑者や被告人の名前を書いて郵送する。もしいなければ手紙が返送されてきて終わり。
 運良く相手の居所が当たりでも、当人のもとにはすでに新聞記者やテレビ局員などから、取材目的の手紙がいくつも届いている……ということも、ままある。こうして〝自分の発言の価値〟を知った被告人らのなかには、取材に対して様々な条件を提示してくる者も少なくないのだが……。

14枚の便箋

〈前略 ご返事を差し上げるのが遅れて申し訳ございません〉
〈ボールペンで手紙を差し上げるのが礼儀だと思いますが、なぜか書いている途中でインクが途切れたりして失礼な文字になってしまうので、シャーペンで書いています。お許し下さい〉
 B5サイズの便箋には、隙間なく小さな文字が埋められていた。へり下った文面と丁寧な筆致は、世を騒然とさせた犯罪者像から程遠い。
〈私のことは気になさらず、どんなことでも聞いてもらって大丈夫です〉
 野宮は、私が勝手に出した取材依頼の手紙に快く応じたのだった。そして送られてきたのが、逃走から逮捕までが綴られた、14枚に及ぶ手紙だ。
 それによれば、彼が逃走を決意した背景には、大井の〝体質〟が深く影響していたという。〈当時の動機や目的などは何点かあります〉と前置きのうえで、こう綴っている。
〈①3月と4月の規律違反で全てを失ったこと。②2月のはじめに足を痛めて気持ちが病んでいたこと。③規律違反で当時の自治会長との関係が悪くなっていたこと。④職員から「他のやつが許しても俺は絶対に許さんからな。覚えとけよ。」と言われたり無視されたりしたこと(規律違反が原因)。⑤規律違反は誰もが日常的に行なっていて、日に日にエスカレートしていました。自分が見つかった時に、それまでの自分の行動を振り返って「みんな大井を刑務所ってこと忘れてるな」って感じて、自分の間違った行動、そして、大井全体をリセットするには、あの方法しかないと考えてしまったこと。⑥職員と一部の受刑者が親密な関係になり、職員が正常な判断ができていなかった。⑦いじめのような指導や下の立場の受刑者が自分の時間を持てず奴隷のような扱いを受けていたことなどが見ていて辛かったこと。
 こんな感じで、いろいろと思い悩んでましたね。大井では、信じれるものなんて、なにひとつも、なかったです。どんな違反があったのかについては今は伝えることができないので。すいません〉
 大井には、松山刑務所長が定めた規定があった。受刑者だけで構成された自治会で、活動を行わせるという独自の処遇を展開していたのだ。これには受刑者の自立心や責任感を養うというねらいがある。場長(刑務官)の指名により、受刑者による自治会長やリーダー、安全推進委員など11の役割責任者(自治委員ともいう)が置かれることとされていた。
 野宮は18年2月に安全推進委員に指名され、また同年3月下旬から就業を開始した新入受刑者2名の生活指導も行っていたという。この任期は、指名を解かれた場合を除き、原則として釈放までとされていた。
 自治委員を指名する場長は松山刑務所長の指揮監督を受け、大井における事務を統括するとともに職員を指揮監督しており、場長の下には副場長、次長及び一般職員十数名の職員が配置されている。つまり、自治会は受刑者たちが自主的に作り上げたものではなく、彼らを管理する刑務所主導のもと組織されたものだった。
 受刑者の生活の大枠は「刑事収容施設及び非収容者の処遇に関する法律」に定められているが、さらに各刑務所にはそれぞれ細かな「遵守事項」がある。
 野宮は、松山刑務所長が定めたこの遵守事項に違反してしまったのだった。
 当時は公にすることを禁じられていたのか、野宮自身は違反行為について手紙で明らかにはしなかったが、事件後の6月に法務省の「松山刑務所大井造船作業場からの逃走事故を契機とした開放的施設における保安警備・処遇検討委員会」がまとめた「開放的施設における処遇及び保安警備等に関する検討結果報告」に、違反行為が詳しく記されていた。
 これによると野宮は逃走の前月、作業道具保管や受刑者の休憩に使われるストックハウス内において、民間企業の従業員用ヘルメットとジャンパーを着用しているところを、工場内を巡回していた次長に見つかったのだという。
 当時、野宮は次長にこう説明していた。
「トイレに行った別の受刑者が戻ってきた時に驚かせるためだった」
 そして、逃走3日前の夜。野宮が居室内で「過去に大井作業場で就業していた元受刑者が残していった」と思しき座布団を所持しているのを、寮を巡回中だった副場長が見つけた。単なるいたずらや、物品使い回しも、刑務所内では自身の処遇を大きく変える重大な違反行為となってしまうのである。
 この2件について、いずれも場長による訓戒・説諭が行われると、野宮は謝罪し「今後は真面目に生活する」と述べたという。だが、謝罪だけでは終わらなかった。場長が受刑者全員を集め、今後は元受刑者が残していった物品を使わないようにと訓示を述べる事態に発展し、また副場長がその場で野宮への自治委員の指名を解いた。
 そして翌日夜、受刑者らで行われるミーティングの席上において、自分も受刑者である自治会長が、野宮を厳しく叱責したという。
「なめてんのか。やる気がないんだったら帰れ。今まで何を学んできたんだ。俺は許さんぞ」
 野宮の手記によれば、元受刑者の残していった物品を使う行為は、大井で常態化していたようだ。そのため、逃走3日前に場長が全受刑者を集めて訓示を行ったのだろう。皆がやっていることなのに自分だけが叱責され、自治委員からも外された。野宮は、絶望的な気分に落ち込んでしまったようだった。
 見せしめのように皆の前で怒鳴られ、立場も一番下になり──〈私の居場所がもうない〉──逃走後に野宮の居室内から発見された、父親宛ての未発信の手紙にはそう記されていた。
〈果物で例えさせてもらいますが、1つでも腐った物があれば、周りをも腐らせてしまいます。生活して気付いたのは、大井はかなり昔から腐っていたということです〉
 そして2日後の4月8日、野宮は窓から逃走した。

大井造船作業場

16頭の警察犬

 敷地外に出ると、野宮はすぐに、近くの民家に停めてある自転車を盗んで移動し、また別の民家で現金を盗み、停めてあった車を奪った。
 ここから本格的な逃走劇が始まる。
〈19:30頃、今治インターからしまなみ海道。(目的地は、ナビにとりあえず遠くに、と思い「おかやま」と入力すると、なぜか愛知県のどこかに設定されたが遠いことに変わりはないのでそのナビ通りに)20:00頃、途中のパーキングで飲み物などを購入。車に戻ってすぐに覆面パトカーが来たことに気付き逃げる〉
 このときは途中で車を路肩に停めてやり過ごし、ふたたび車を走らせた。野宮は一旦しまなみ海道を抜けて本州まで上陸していたのだが、向島からの合流地点に先ほど見送ったパトカーが停まっていたことから、向島に戻ることにしたのだという。
〈路肩をつかって逆走して、すぐのところに公衆トイレがある駐車場があったので、車を乗り捨てて目の前の山へ〉
 向島と尾道をつなぐ橋は2つある。新尾道大橋と、尾道大橋だ。後者は2013年まで通行料の収受が行われていたため、向島北部には料金所跡が今も残り、公衆トイレや駐車場もそのままになっている。車を降りた野宮は、走って山へ向かった。
〈21:00頃、山を抜けて民家にあった自転車を窃盗〉
〈22:30頃 民家から金品などを窃盗(ニュースなどで出ていた置き手紙を書いた場所)〉
〈23:30過ぎ、1件目の潜伏していた空き家を見つける〉
 野宮は、逃走初日に見つけたこの空き家に2日間、10日夜まで潜伏する。
 向島は近年、県外への移住者増加に伴い、空き家が1000軒以上ある。耕作放棄された果樹園も目立ち、逃走犯が潜伏しやすい環境が整っていたともいえる。
 1軒目に潜伏した空き家には食べ物がなかったため〈お腹が空いたので近くの民家から食べ物や金品を窃盗〉していたという。この空き家で潜伏を続けるためには、定期的に外に出て〝盗み〟を働く必要があるのだが〈9日の朝からずっと家の前を警察、報道の人、中学生が歩いたり、前に止まって警察の人がメモを取ったり〉と、周辺は騒がしい。
 危険を感じた野宮は〝引っ越し〟を決意した。
〈すぐ見つかるかもしれないと思い10日の夜に、山の近くを通って、2件目の空き家を見つけて、24日までの2週間潜伏してました〉
 その間、広島・愛媛両県警が投入した捜査員はのべ約1万5000人。向島全域を捜索し、島に繋がる全ての道路と渡船で検問を行っていた。世間がそのことを知った第一報は、逃走翌日の4月9日。ここからテレビや新聞は連日、野宮の行方や人相、大井の特徴、捜査状況などを報じ続ける。
『愛媛県警今治署は八日、同日午後六時ごろから同七時ごろの間に、同県今治市の松山刑務所大井造船作業場から野宮信一受刑者(27)が逃走したと明らかにした。今治市と瀬戸内しまなみ海道で結ばれている広島県尾道市・向島の尾道大橋付近で、野宮受刑者が使ったとみられる盗難車が見つかり、両県警が周辺を捜索している』(『東京新聞』4月9日・引用部も仮名に変更・以下同)
『愛媛県今治市の刑務所から男の受刑者が逃走し、指名手配されている事件で、男が潜伏していると見られる広島県尾道市の島では空き巣や車上荒らしの被害が相次いでいる事が分かった。警察は関連を調べるとともに、10日も300人の体制で捜索を続けている』(NHK『昼のニュース』4月10日)
『愛媛県の刑務所施設から野宮信一受刑者が逃走して5日目。受刑者が依然として島に潜伏している可能性があることがわかった。900人態勢で捜索をしている』(TBSテレビ『あさチャン!』4月12日)
 こうした捜索も功を奏さなかったことから、4月21日には、それまでで最多となる16頭の警察犬が投入された。さらに警察490人体制、消防団員約300人で1000軒超の空き家を点検、警察の動員数はのべ1万人超にも上ったが、野宮は見つからない。
 ついには、ゴールデンウィーク前の新兵器として、赤外線カメラを搭載した海上保安庁のヘリコプターを使用して捜索するも、逃走19日目のヘリ投入に「今更かよ」「ちょ〜遅え……」など、ネット上での評価は散々なものだった。

潜伏先に警察が入って来た

 空き家の多い島というと、人通りの少ない閑散とした風景をイメージしがちだが、向島の人口は2万2000人以上(2020年11月末時点)で、子育て世帯も多い。夕方になると制服を着た学生らが自転車に乗り、渡船場へ向かう姿を多く見かける。
 広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶしまなみ海道は、大勢のサイクリング客らが訪れ「サイクリストの聖地」と呼ばれる観光地でもある。そして向島は、本州からしまなみ海道を渡る観光客たちが最初に上陸する場所だ。土地以外の人の来訪に慣れているためか、島の人々は、筆者の取材にも快く応じてくれた。
「日立造船や向島ドックなどの大きな造船会社がある関係で、関連会社や下請け孫請けがあって、結構仕事がある。島というと仕事がないから本土に行くという考えがあるけどこっちに来る人も多いよ。だからいまも船着場3つもある。前は5つあったからね」
 島の産業について教えてくれたのは、大正5年創業の住田製パン所を営む住田初志さんだ。野宮の潜伏によって生活が一変した向島の住民たちは、いまも当時の混乱ぶりを鮮明に記憶している。ある住民はこうこぼした。
「検問が始まった日のことは忘れられない。この辺の小学校の入学式の日だったんです。検問で橋が渋滞になって入学式に間に合わんと皆が言っていました。その日は朝5時に地震があって、そして検問が始まって……いろんなことがあってすごく覚えてます。
 それからは、島に入ってくる車も出る車も1台1台、一度停められて車の中を見られて、っていうので、しばらく大変でした。車を乗せることができる渡船でも毎回検問。当然、橋はいつも渋滞しとったし、近隣の人は『いまは来ちゃいけんのんじゃないか』となかなか来てくれなくなった」
 島内の小学生たちは集団登校を余儀なくされ、下校に保護者の迎えが必要となった学校もあった。日中は捜索のためのヘリコプターが絶えず旋回し、捜査員らが島中を歩き回る。住田製パン店近くのサイダー店で、店主と立ち話をしていた女性も言う。
「この辺じゃ、ああいうことないけえねえ。今でもヘリコプターの音を聞いたら思い出すんよ。この前の道を警察が10人くらいで棍棒持ってね、よう歩きよったねえ」
 当時、向島で取材を行っていた全国紙記者は、当時の警察の混乱ぶりを苦笑しながら振り返った。
「目撃情報は結構ありました。食料が盗まれたとか、菓子パンの袋が捨ててあったとか。そのような情報が寄せられれば、警察はとりあえず確認に行きます。信憑性が薄いものが多かったなか、あるとき一度だけ『ついさっき、怪しい人を見た』という情報が寄せられたんです」
 それが尾道大橋のそばにある岩屋山だった。山頂付近に巨石群が点在しており、古代の巨石信仰の聖地でもあったといわれている。尾道市街が一望できる地元の観光スポットだ。この周辺の住民から目撃情報が寄せられて、捜査員らは色めき立った。山裾を囲み、徐々に登っていけば、必ず野宮を確保できると考えたからだ。
「それで警察が1000人以上で山の周辺を囲んで、機動隊みたいな人たちが続々と山のなかに入って行った。我々も本社から写真部に来てもらっていたので『初めての大捕物をやるから』と、急いでスタンバイしてもらったんです。ですが、その情報は信憑性が薄かったようで、結局野宮は見つからず。唯一見つかったのが『人糞らしきもの』だったんですよ……」(同前)
 ワイドショーやニュース、新聞がこの向島の様子を連日報じるなか、当の野宮は2軒目の空き家で潜伏を続けていた。彼にとっては幸運なことに、その空き家には一通りの家財道具に加え、食料まで残されていたという。さらに水道、電気まで通っていた。
〈そうめん、米、さば缶、こんにゃくゼリー、干しいたけ、粉末コーヒー、2Lのお茶、もち、冷凍の魚、などで2週間生活していました。賞味期限は9割の物が切れています。一番ひどいのは、2001年に切れてた物も。ほとんどが5年以上前に切れてます。食べないとどうしようもないので、火を通して食べてました。腹痛は1回だけありました〉
 1軒目の空き家のときのように食料調達のための外出は不要な環境にあったが、3度ほど、空き家を抜け出して外に出たこともあったという。
〈1度は飲み物を自販機で購入。残りの2度は、すぐ近くで道路に座って何も考えていなかった。毎日のヘリコプターの音で寝れず〉
 そんな中、ついに彼が潜む空き家にも捜索の手が伸びる。2軒目の空き家に潜伏してから10日が過ぎた、4月20日頃だったという。
〈20日頃、潜伏先に警察が入ってきて屋根裏まで調べず見つからず〉
 窮地を逃れた野宮は、空き家に潜伏中、テレビも見ていたという。そこで自身の逃走についての報道を確認していたが、大井の言い分には不満を抱いていた。
〈出頭する気は、大井の問題が明るみに出て、改善するということが分かるまで、なかったです。あと、最初の方の報道で、「大井での指導などは問題はなかった。」と報道されていて、怒りの感情が強かったです〉
 だがその報道から、いま身を隠している向島の現状も知ったそうだ。
〈毎日のニュースで、向島の方々が、橋の検問などでとても迷惑や不安を与えていたことが、見ていて辛かった〉

向島

脱出

 そして4月24日、彼は向島からの脱出を決意した。
〈4/24 22:00頃、死んでもいいという気持ちで海を泳いで島を出る〉
 尾道水道を渡れば向島から本州までは最短200メートル。水面には波もなく、頑張れば泳げそうな距離だが、野宮が死を覚悟したように、この200メートルは並の海域ではない。
 向島の住民らは口々に言う。
「船から見てもよう分からん。上から見たら穏やかなんやけど、海の中がね。潮の流れはすごい速いんよ。流れ速いから真っ直ぐは行かれんから、船もちゃんと潮の流れを計算してるよ。尾道大橋でたまに自殺する人おるけど、真っ直ぐ落ちることない。まず1キロ以上は流されて見つかるから」
「泳いで渡ったっていうけど流れは速いんで。フェリーとか見たら、すごい流されてまっすぐ行けてない。流されてる」
「もともと島の北側も海水浴場だった。当然、泳ぐやつもたくさんいた。波はないけど流れが速い。40、50年前は泳いで渡ったと言うおじいさんもおるけど、今はおらん。
 あと昔と違って、向島から渡っても、尾道側の桟橋が整備されて、陸に上がれるところがなかなかないんよね。桟橋は結構高いところにあるからひとりでは上がれない。昔は石の階段があって、どっからでも上がれた」
 フェリーでさえ航路がずれるほどの激しい海流で、小型漁船はエンジンを止めた瞬間に流されてしまうという。加えて当日の夜は、ざあざあ降り一歩手前のしっかりした雨が降っていた。
 地元住民らが口を揃えて「潮の流れは速い」と言う尾道水道。野宮はビニール袋に入れた着替えを携え、潜伏していた空き家を出て北に向かい、ある造船所の駐車場脇から海に入った。そして200メートル位の距離を1時間以上泳いで本州に上陸したという。
〈最初の50m程は、全く波が無く、「これなら全然大丈夫だろう。」と思って泳ぎ始めたら、50mくらいのところに、船の碇泊できる場所があって、そこのラインから潮の流れが一気に激しくなったんです。「これはやばい。」と思って、1回その碇泊場に上がって、どうしようか考えてました。当時、雨が結構降っていたので、かなり寒かったんです。20分後くらいに、戻るという気持ちは泳ぎ始めた時からなかったので、海へ再び入り、仰向きで、足をバタバタさせ、手は水の中でバタバタさせて、泳いで対岸を目指してたのですが、どんなに泳いでも横に流されるだけで、全然前に進みませんでした〉
 当時の水温は15度前後。体は冷え切っていたに違いない。このあたりから実際に死が頭をかすめはじめたようだが、必死に泳ぐ。
〈泳がなければ、ただ死を待つだけになるので、無我夢中で泳いでたんですが、30分くらい手足を動かしていると寒さと疲れで動かなくなり、それから「もう無理や…。」と思い、ただ仰向けの状態で浮いているだけになってて、それからどのくらい経ったか分からないのですが、おそらく20〜30分くらいで、顔を上げて対岸を見ると、かなり流されてはいたのですが、あと少し泳げば対岸へ着きそうなところまできていたので、最後の力を出して泳いで、なんとかたどり着いた感じです〉
 命からがら上陸できた野宮だったが、しばらくは死の不安を抱えながら過ごした。
〈たどり着いてホッとしたということより、寒さと疲れで体のふるえが止まらず、今のままだとそれが原因で死ぬんじゃないかという考えばかりでした〉
〈海を泳いだせいで、ずっと風邪を引いてました〉
 尾道水道縦断の壮絶さがうかがえる。しかしそれでも、野宮が海に入った日時、潮の流れは極めて緩やかだった。別の時間帯、別の日であれば、命を落としていた可能性もあったと、地元住民たちは一様に野宮の〝幸運〟に言及したのだった。

野宮はこの尾道水道を雨の夜に泳いで渡った。
大きな波は立たないため、潮の流れが早いということが意外である。

月に一度訪れる特別な時間

「駅より西の方に着いたと聞いたよ。だから相当流されたんじゃろう。満ち潮のときは東の方へ流れるんじゃけど引いたときは西の方へ流れる。引いたときじゃったんじゃろう。でも、いい日を選んだようじゃったよ。一番潮が凪になる時だったから。頭が良かったんやね」
「80歳になるお袋もそのひとりですが、あそこを泳いで渡った人が、口を揃えて判で押したように言うのが『300メートル流された』という事実です。海図からのうろ覚えですけど、潮流が日によって、また時間によって違いがあるものの、最強で2・5海里ほど(1海里約1・9キロメートル)。満ち潮では東に、引き潮では西に流れます。これが上げ潮だったら東に流されますから、対岸の漁港以外に上陸ポイントはほとんどなかったはずです」
 24日は潮流が穏やかになる小潮のうえ、同日深夜から25日未明にかけては「潮止まり」になっていたというのだ。尾道水道は夜間も船の行き来があるため、船体にぶつかったり、スクリュープロペラに巻き込まれる可能性もあったが、野宮はいくつもの幸運を味方につけ、泳ぎ切った。
「この時間帯を狙って泳いだ可能性がある」「漁協の人がテレビでそう話しよるのを聞いたんじゃないか」など、尾道水道の潮の流れを把握していたのではと住民らは言うのだが、野宮はそれを知らなかったと綴っている。
〈警察での取り調べで、余談として話してもらったことなのですが、自分が泳いだ24日のその時間(22時頃)は、潮の流れが落ち着いていた唯一の時間帯だったと言っていました。その時間帯以外だとまず泳ぐのは無理だっただろうとのことです。勿論、潮の流れを泳ぐ前に調べることはしていません。
 あと海までの道中で、警察の人を見かけることは、一回も無かったです〉
 知ってか知らずか、ともかく無事に尾道への上陸を果たした野宮は、3軒目の潜伏先を見つけ、数日そこに身をひそめることにした。
 向島とは異なり、この民家には人がいたが、住人の男性は日中に数時間帰宅するのみで、野宮と接触することはなかったそうだ。
『屋根裏には野宮容疑者が持ち込んだとみられる炊飯器やコップが放置され、現金や健康保険証、衣服が盗まれていた(…)取材に応じた男性は「風呂の窓を少し開けていたことがあるので、そこから侵入したのでは。本当に気持ちが悪く、腹立たしい」と、憤った。野宮容疑者は向島でも無人の別荘の屋根裏に潜伏していた』(『日刊スポーツ』5月4日)
 当の野宮はその間、25日と27日にはマスクで顔を隠して近くのコンビニに行き、パンやお菓子を購入するなど、逃走犯とは思えぬ自由を謳歌していた。
 ようやく風邪が治った29日、野宮はバイクを盗み、また移動を始めた。しかし、安芸長浜駅でバイクのガソリンがなくなったため、電車で広島駅へ。ネットカフェで3時間を過ごして退店した後、広島の街を彷徨っていたところをついに逮捕された。
〈どこに行けばいいのか分からず、大通りを5分位歩いていました。交番の前に警察が立っていたが、全然気付かれず、だが直後に横の道路を走っていた覆面パトカーに見つかり、まだ心の準備ができていなかったので、逃げてしまい、でも20mくらいで捕まりました〉
 大井を脱走してから、実に23日が経っていた。

第2章 めっちゃ似とる──松山刑務所逃走犯

 4月30日11時25分の通報を受け、11時38分に野宮の身柄が確保されたのは、広島カープの本拠地・マツダスタジアムに通じる大通りから入った、小学校脇の路地だった。
 その直前、覆面パトカーに見つかったことに気づいた野宮はあわてて走り出し、脱げたサンダルにも構わずに、靴下で小学校の塀をよじ登ろうとしていたところで、追いついた署員に確保された。13時半から始まる阪神タイガースとのデーゲーム観戦のため、多くのカープファンがスタジアムに向かっているタイミングだった。
「その日は連休だったこともあって、店内にもお客さんが多くて、外も球場に向かう人がいっぱいいました」
 広島駅にたどり着いた野宮が〝逮捕前の最後の時間〟を過ごしたネットカフェに勤めていた木村さん(仮名)の話を聞くことができた。
 野宮を見て「似ている」と店長らに伝えた張本人だ。確保に直接関わったことから、店舗の名や、木村さんの本名や性別は伏せるが、この報告を受けて統括店長が警察に通報し、野宮の逃走劇は終わった。
 マツダスタジアムへのアクセスにも都合の良い場所にあることから、デーゲームの前日夜からは利用者が増える。自由席の確保のため、夜のうちから仲間内でスタジアムの行列に並び、交代でカフェに戻り休憩するカープファンも多かったという。普段よりも賑やかな店舗に木村さんが出勤したのは、当日の朝9時。
 このとき野宮はすでに入店しており、個室ブース内にいた。
「逃走中の容疑者に似ている」と木村さんが初めて思ったのは、その客がシャワーを使いたいと受付に申告したときだったという。
「個室席からそのお客さんが出てきて対応をした時に『似た人だな』と思ったんです。お客さんはマスクをしていました。それは珍しくはないんですけど、坊主頭だった。そのマスクから上のフォルムがなんとなく似とるな、と。シャワールームに案内したあと、数人いたスタッフに『あの人似てない?』って話していました。そのときはもちろん冗談みたいな感じです。まさかここにいると思わないですから。
『シャワーから出てきたら見てみて』と言ったりしながら、フロントのパソコンで事件を検索して、そこに載っとる顔写真をみんなで見て『すごい似とるんだって!』みたいな話をしていたんです」
 すると野宮がシャワールームから出てきた。このときはマスクを外しており、顔が全部見えた。
「めっちゃ似とる」
 スタッフたちの意見は一致。個室に野宮が戻った隙に、木村さんは他のスタッフとともに、端末で会員情報を見直した。ネットカフェには常日頃、警察からの手配書や尋ね人のチラシが届けられる。そのためスタッフらも、通常の業務として、違和感を覚えた客について端末で調べるという習慣があった。
 野宮はこの店舗を初めて利用するため、入会申込書に氏名や住所を書き込んでいた。木村さんの出勤前に別のスタッフがこの対応を行い、野宮の持っていた保険証と照らし合わせていたという。その情報を確認した木村さんは、3つの引っ掛かりを覚えた。年齢、住所、そして筆跡だ。
「登録されてる会員情報の『年齢』を見たら、40歳代とかで、けっこう年齢がいってたんですよ。でも本人は、見た感じ、そんなにおじさんではなかったんです。あと、入会時に書いてもらった用紙を見直したら、犯人が潜伏していた島を渡ったほうの住所だったんで『保険証、もしかして盗んできたやつじゃない?』とか『年齢も絶対違うと思うんだけど』みたいな話をコソコソとしていたんです。
 それと、入会申込書の字がやたら綺麗だった。こういう店って、申込用紙は皆さん適当な字で書くんですよ。でもすっごいキッチリ書いてあった。こんな綺麗に書くかなっていうぐらいの用紙でした。受付したスタッフ曰く『書くのにすっごい時間かかってた』とは言っていました。たぶん保険証を見ながら書いていたんだと思います。適当な字で書かれた入会申込書の中にそれがあることで、逆に目立ちました」
 野宮は、潜伏生活中に盗んだ保険証を用いてネットカフェの入会申込書を記入し、会員登録手続きを行っていた。しかし、顔が似ていることに加え、この会員情報や筆跡から、木村さんはじめスタッフたちは〝めっちゃ似とる〟という思いをさらに強め、ついに責任者に報告することにしたのだ。
「まず、昼出勤予定でまだ店舗にいなかった店長に電話をかけて『似てる人がいて、スタッフ皆も似てるって言ってます』と伝えて、そのあと事務所にいた統括店長に相談しました。どうしようか、みたいな話をしたんです。そうこうしているうちに、犯人が席から出てきたんですよ。なので、また事務所に行って『退店しようとしています、どうします?』と統括店長に判断を求めました」
 木村さんの報告によって、フロントで客の顔を確認した統括店長は「似とるね」と、すぐに通報。木村さんは野宮の退店手続きを行ったのち、そのまま昼の休憩に入った。野宮の確保は、入れ替わりで出勤した店長からの電話で知ったという。
「店に戻ったら警察がめちゃ来て、話を聞かれました。その後テレビの取材とかもいっぱい来たんですけど、自分が対応したとは報道の方も分かってないんで『分かりません』って答えてましたね」
 しかし現実的に考えると、「似ている」という報告を受けても、警察への通報は勇気がいることだ。違っていたらという不安がつきまとう。それでも通報を決めたのは、勤続年数の長い木村さんへの強い信頼があったからだと、店長は言う。
「木村さんは長く勤めていて観察力というか、そういったところは元々ある方だと思っていた。その木村さんが言うなら、あながち間違っていないのかなという信頼があった。仮に違っていたら違っていたで仕方ない、空振りでも、とりあえず一旦警察に連絡したほうがいいかなと判断して通報を認めた記憶はあります」(店長)
 尾道への上陸後、侵入した民家で盗んだ服に着替えていた野宮は、ネットカフェ来店時には「おしゃれな服を着ていた」というが、カープファンひしめく広島では、これが仇となった。
「他のスタッフとも『おしゃれしてない?』って話になったんですよ。『普通の服着とるよね』って。その辺の服を適当に取ったわけじゃなく、ちゃんと組み合わせを考えとるみたいな感じの服装でした。でもデーゲームの日だったんで、逆に普通の服よりもカープのユニフォームを着てたほうが紛れられたと思います。そういう街なんで」(木村さん)

広島はローソンも赤くなる

なぜ逃げた?

〈捕まって最悪という気持ちはなく、とても安心しました。精神的にも体力的にも疲れてました〉
 当の野宮は心身ともに限界を迎えていたようだ。
 先にも少し触れたが、野宮が逃げた理由は、社会に近い環境で生活をする「開放型処遇施設」の状況に不満を持っていたからだ。彼の主張によれば、自分だけのためではなく、「大井を変えるため」に逃げたというのである。
「開放的施設における処遇及び保安警備等に関する検討結果報告」には、過去の大井の逃走事件についても記されていた。開所以来、大井では野宮を含め17件20名の逃走事件が発生している。
 野宮の前には2002年8月、朝の作業開始時に隙をついて作業場のフェンスを乗り越え逃走したという事件があった。1時間20分ほど経ってから自ら110番通報し、逮捕されている。
 この受刑者も野宮と同じように、逃走の動機に自治会の存在を挙げていた。
『①寮内生活のルールを実践できなかったことから、自治会の自治委員等の受刑者から繰り返し注意指導を受け、作業場から離脱したいとの気持ちが募った、②本所に送還してほしいとの意思を職員に申し出ることができなかった、③寮内で自治委員等の受刑者から寮内生活のルールを実践できなかったことへのペナルティーとして腹筋運動やスクワットを強要されたというものであったことが判明した』(報告書より)
 当時の逃走事件を受け、松山刑務所長は再発防止策のひとつとして『自治会によるスクワットや腹筋運動等のペナルティーの実施を禁止』(同前)したという。
 だが、のちに野宮も2018年に、大井での生活に悩み、逃走した。
 また1996年、作業中に大井から抜け出し逃走した受刑者もいた。約1時間後には路上で発見され取り押さえられたが、この際に「先輩囚人の指導が気に食わず、塀のある松山刑務所に戻りたかった」と語っていた。「戻りたい」という思いから、徒歩で松山刑務所に向かっていたようだ。自治会は、表向きには責任感や自立心を養うための処遇とされていたが、実際のところはどうだったのか。

野宮が確保された広島市の路上

何が変わったのか

 野宮の逮捕後、友愛寮は一旦使用が中断され、警備強化工事が進められた。工事完了後の12月に受け入れを再開。逃走防止のために投入された設備は厳重だ。
 まず、逃走発生をすぐに把握できるよう、寮舎の外壁に赤外線センサーを設置。寮舎やその周辺にもセンサー付カメラが導入された。このセンサーは「センサー反応」「カメラが動体捕捉」「撮影範囲から消える」の3段階に分けて警報し、勤務している刑務官のスマートフォンに画像が送信される仕組みになっている。
 窓にも対策が講じられた。野宮が逃げた1階の北側だけでなく5階までの全635枚の窓に防犯フィルムを貼り、ストッパーをつけて最大約10センチしか開かないようにした。受刑者が出入りするドアは生体認証による電子錠とし、指紋や静脈などが登録された刑務官しか開けられない。
「塀のない刑務所」としての開放的処遇は維持しながらの対策だ……と当時は報じられたが、実際には受刑者が自由にドアから出入りすることができなくなっており、これで開放的処遇といえるのかは疑問が残る。
 ハード面だけでなくソフト面でも対策がなされた。野宮が逃走する原因となった集団生活のストレス軽減のため、寮の部屋はカーテンで仕切れるように。寮での生活は平日のみに変更し、週末は松山刑務所に戻って1人部屋で過ごせることになった。月に1〜2回だった面談を5回以上に増やし、心理技官も交えて心情把握に努めることが決まったという。
「大井を変える」ための逃走の結果、実際に大井に大きな変化をもたらしたが、それが野宮の望んでいた形かどうかは分からない。また、そんな〝新しい大井〟をぜひ見たいと取材を申し込んだが「逃走に関わる取材依頼には応じられない」との回答だった。

捜査への不満

 野宮の逮捕に大いに貢献した広島のネットカフェには後日、警察が挨拶に来たという。
「刑事さんみたいな人たちが菓子折りを持って来ましたね。『よく分かりましたねぇ』なんて言われましたけど、こんな自分みたいなスタッフが気づいたのに気づかなかったなんて、節穴だなって思いました」(木村さん)
 また向島を訪ね、住民らに話を聞くことで浮かび上がってきたのは、捜索にかかる広島・愛媛両県警のピント外れな対応だった。
 野宮が車を乗り捨てたのち、向島に潜伏していると睨んだまではよかった。のべ1万5000人以上もの捜査員を投入して島中を練り歩き、空き家を見回り、果てはヘリコプターでの監視──。
 しかし、大掛かりな捜索が行われたのは、実は昼間だけだった。潜伏していた空き家から外の物音や様子を窺っていれば、警察の行動はほとんど完璧に把握できたに違いない。
 野宮は、潜伏していた空き家を夜に3度も抜け出し、のんびりと夜風に当たる余裕すらあり、島を離れるときも夜のうちに海まで移動して、尾道に上陸していた。
「警察も、昼間はリュック背負って遠足みたいに皆歩いているんですけど、17時になったら撤収するんです。なので夜は出歩けるじゃないですか。それよりも夜にライトをつけて見張っとったほうがよかったんじゃないかなと、皆で話してました」(住民のひとり)
 広島県警が「向島の防犯カメラに24日夜、野宮容疑者に似た不審な男が映っていた」ことを明らかにしたころ、すでに野宮は新たな潜伏先で数日過ごしていた。防犯カメラに映る野宮はジャージのような黒っぽい服とズボンを身につけ、雨が降るなかで傘をささずに歩いていたという。
 近くの神社では26日に黒いジャージと寝袋が見つかったことから、野宮が着用していた可能性があるとして調べていたが、その後の足取りは全くつかめないまま、ゴールデンウィークに突入してしまった。
 本来ならば観光客らが訪れる書き入れ時であるにもかかわらず、長きにわたる検問によって向島には「渋滞の島」というイメージが広がり、宿泊キャンセルや飲料の売り上げ減などが相次いだと報じられていた。
 2週間潜伏していた向島の空き家を警察が改めて捜索したのは、野宮がすでに本州に上陸した後だった。人糞らしきものが見つかるという大捕物が繰り広げられた岩屋山の南側斜面に沿って並ぶ住宅の中にあるその家は、関西に居を構える夫婦が別荘として中古で購入していたものだった。
 島の不動産業者が重い口を開いた。
「本来、別荘を求めて来るのは南側の海が見えるところが多いですね。ここは北側なんで反対側。そのご夫婦は、別荘とはちょっと違う、ふるさと的な意味合いでここを購入されたようです。あのへんで別荘としての利用は珍しいと思います。年に数回、帰って来ていたんですけど、旦那さんが亡くなられてからは戻られる頻度も減っていました。中は普通に生活できるものが全部揃っていて、電気や水道も通っていたんですが、結局なかなか来る機会が少なくなっちゃったから処分しようという話になっていたはずです」
 住民たちは、口々に〝あの地域で別荘として使われていたのは珍しい〟と話す。
「あれだけ道具や食べ物が揃ってるような、ああいう状況はおそらくこの辺では稀ですね。だいたいは例えば大阪なんかに新しい家建てて、こっちに家を残している、おばあちゃんの時代の荷物がそのまま……とか、そういうのが多いです。ほかには、住んではないけど持ち主がちょこちょこ来ていたり、草むしりしているという空き家もあるし、完全に放置もある。持ち主が施設に入って家が傷み放題という空き家もあります」
 家主は、玄関などは施錠していたが、風通しを良くするために1階風呂場の窓を開けて、網戸にしていた。野宮はこの窓から侵入したとみられる。逃走が大きく報じられた際、家主は不安を感じて相談したが、「異常はない」との返答だった。ところが逮捕後に県警から改めて連絡があり「野宮容疑者が隠れていた可能性がある。家の中がぐちゃぐちゃになっている」と伝えられたという。
 警察は付近で窃盗が相次いでいたことから、22日頃にこの家を訪問したが、窓越しに家具などが見えたため、人が暮らしている家だと判断して、屋内には立ち入らなかった。その後、24日夜になって、野宮に似た人物が近くの防犯カメラに映っていたことを把握し翌日以降に再訪したところ、屋根裏に何者かが潜伏した形跡があるのを見つけたのである。
 こうした〝空き家の捜索〟の内容に対して、住民たちは不安や不満を抱えていた。ある住民は、当時警察が捜索した空き家のひとつを示し、いまだ憤慨している様子でこう語る。
「見てください、これ。警察が調べた空き家には、こんなふうに、チェックしましたって分かるように日付を書いたテープを貼るんですよ。でも逆にそれって、ここが空き家だと教えているようなものですよね。そういう対応には皆、すごい不信感を持っていました。『ここは調べたから、もう警察は来ん、って教えとるようなもんじゃん。貼っとるところに入れば、いくらでも潜伏できる』と話していました」
 野宮が潜伏していた空き家にも警察が一度訪れたということは、当時このテープが貼られていたことになる。だが内部を確認したとしても、施錠されていなければ、その後いくらでも出入りはできるだろう。
 多くの地方都市に見られるように、向島ではドアや窓を施錠しない家も多いどころか、鍵をつけたまま停めている車もあった。実際にそんな車のひとつから、野宮は現金などを盗み、そして窓の開いていた家に入っていた。
 しかも驚くべきことに、この騒動から2年が過ぎた2020年になってもまだ、この日付入りのテープがそのまま貼られている空き家がいくつもあったのだ。
「防犯面からも心配です。ここが空き家です、って分かるようになったままなのが怖い」
 住民たちは当時の警察の対応に今も憤っているが、野宮に対してはまた違った感情を持っていた。

捜索済みの空き家に貼られた目印のテープ(2020年撮影)

出てきたら、ご飯食べさせてあげるのに

 不思議なことに、話を聞かせてもらった住民は皆、野宮のことを「野宮くん」「信一くん」と呼び、親しみを隠さないのである。
「野宮くんのこと聞きに来たの? 野宮くん、って島の人は皆こう言うね。あの人は悪い人じゃないよ。元気にしとるんかしら」
「信一くん、そんなん隠れとってもしゃあないから、出てきたらご飯でも食べさせてあげるのに、って皆で話してました。もう実は誰か、おばあちゃんとかがご飯食べさせてるんじゃないん、って。当時からそんなに、悲壮感みたいなものもなく」
「野宮くんは、あの海を泳いで渡ったんだから大したもんや。ここにおったのは、住み心地がいいからやね。犯人が見てもわかるんじゃ。いいとこじゃけね。あはは」
 潜伏中、島の住民たちは、彼がどこかでお腹を空かせているのではないか、と野宮の身を案じ、何か食べさせてあげるから、出てくればいいのに……と語り合っていたのだという。野宮は島を恐怖に陥れたわけではなく、逆に島の人々から心配されていた。
 取材の合間に立ち寄った喫茶店では、こちらが問うてもいないのに、店主からこんな風に話しかけてきた。
「この辺はいいところでしょう。ここずっと行ったところに逃亡犯が潜伏しとったんよ。あの山の麓のほう、ほら」
 もはやトークが〝仕上がっている〟様子で一部始終を語ってくれる有様だ。また、住民らにとっては、当時の報道の過熱ぶりも笑い話となっている。
「逃走のニュースが流れた日、子供が小学校に遅刻しそうになっていて、車で送ったところ、検問の関係で渋滞に巻き込まれて、かなり遅刻してしまったんです。泣きそうな顔で校門に駆け込んだところ、NHKかどこかの局のカメラが回っていて、その様子がニュース番組で流れたんですけど『小学生が怯えて登校しています』とナレーションがついてて、家族みんなで大笑いしてました。ただ遅刻して怒られそうだったからなんですけどね。
 その年の年末にも、1年間のニュースを振り返るみたいな番組でそのシーンが流れてまた大笑いしました」
 ともあれ、こうした報道を見た野宮は、心を痛めて海を渡ったのだった。
 また取材をしていると、住民たちの多くが、逆にこう尋ねてきた。
「いま野宮くん、どうしとるん?」

向島

真面目な人間になりたい

 日本中を騒がせた逃走事件を起こした張本人・野宮は、いま西日本の刑務所で服役中だ。文通をしているとき、彼は私に「自動車整備士の資格を取りたいので参考書を差し入れてほしい」と頼んできた。これまで私が交流してきた被告人、受刑者は多くが読書に娯楽を求めるので、珍しいことだった。
 過去に、私は「囚人たちの愛読書」と題した週刊誌の企画で各地の受刑者、被告人らに愛読書を尋ねる取材を行ったことがあった。刑事施設内で読書をするには、外の人間から差し入れてもらうか、自費で購入するかになるが、そのほかに刑事施設が貸し出す「官本」というものがある。
 当時、ある受刑者は、その官本のなかでも「百田尚樹の『海賊とよばれた男』が特に人気があった」と教えてくれた。刑事施設の人気の書籍は、外の世界と変わりがない。東野圭吾や宮部みゆきの作品はもはや定番中の定番ともいえる。
 こうした傾向があるため、彼らが書籍の差し入れを求めるときは小説や成年コミック、雑誌、またはグラビア写真集など……を求めるものなのだが、野宮は違った。
 そして、長々と文通を行うことなく、更生に集中したいと伝えてきた。
〈ただただ1日を生活するんじゃなく、刑務所生活というのは毎日のように、なにかしらの変化や気付きがあります。そんな環境では、自分自身の成長というのがとても大きなものになります。しかし、それも自分次第ということなので、今は自己改善に集中して、真面目な人間になって、社会復帰を目指したいです〉
〈まだまだ長い受刑生活となりますが、事件で迷惑を掛けた方々に対しての反省、償いの気持ちを常に持ち続けて1日1日をしっかり意味のあるものにし、改善、更生に向けて頑張っていきます〉
 そして手紙の最後にはこうあった。
〈追伸。送って頂いた資格の本で、しっかり勉強して、必ず、社会で役立つものにしていきますので!〉
 野宮の出所まで、2年を切った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?