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心は広くできない

 寛容は神性の一つの現れですが、よく”心の広い人”と言い換えられたりします。しかしこの心が広いというのは、安易に使われている気がして実態にあっていないのではないかという気がします。それどころかさらに悪いことには、”心が広い”ことが良いことなのだと文字通り受け止めて、みんな無理して心を広げようとしているのではなかろうか。

 心はその要素としては記憶から成り立っています。心を”今この瞬間”に集中するとは、記憶の海から一旦身を引いて、意識の焦点を現実に向けることです。それでは心を広くするとは記憶の海を高いところから俯瞰することになるでしょうか。確かにそうすれば視界は広がりますが、気になる箇所からはなかなか自由にはなれないのではないでしょうか。どんなに海が広いと言っても北海道の赤潮や沖縄の軽石を無視することはできません。

 心の毒も、記憶の一部を確実に占領していて、心を広げるという水平思考では目をそらすことはできても消し去ることはできません。

「敵意や敵愾心は無知の産物です。そこには理性の働きが見られません。時には恐怖心から出ていることもあります。また時には、”洗脳”の結果である場合もあります。知的抵抗力のない幼い時期に植え付けられたお座なりの教えから一歩も出ることができず、精神がすっかり汚染されているのです。」

(「シルバーバーチの霊訓12」232頁)

 精神の汚染をなかったことにしたり消滅させるというのではなく、無毒化することはできるのです。そのために必要なことは、広くするという水平思考ではなく長くするという時間思考です。いきなりですが、永遠の時間の中にそれを置くのです。私たちが永遠の霊であるという確信とともにそれが可能になります。

 永遠の中では毒も非常に薄まって、ホルミシス効果でかえって益に働くことも考えられます。

 まあ、そういった人を平たくいうと、心の広い人、ということにはなってしまうのですが。






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