感情は全て一緒に揺れ動く

高校教員です。

勤務する学校では、対面授業を再開させて5ヶ月ほどが経った。行事ができない、などの多少の制限があったり、我慢しなければならない局面があったりするものの、普通に日常を送ろうというということに意識が向いている。
最近になって思うことは、「授業が楽しいとか大変とかという感情を超えてきた」ということだ。授業が盛り上がると楽しいとか、授業で寝ている人がいると悲しいとか、そういう気持ちが同時に、一緒になって動いているという感じ。今のモチベーションを言い表す言葉としては、「授業をしている瞬間だけ息をしている」という感覚だ。

授業、というか、「人前に出て何かすること」はおおむね、準備が肝要になる。準備には、終わりがない。「こんなことを言うとどういうリアクションが来るだろうか?」「最初から最後までハリをもたらすことができるだろうか?」考えるときりがない。長く長く、納得いくまで、潜水をする感じだ。長く息をひそめるのは、時に苦しい。
授業の時間が来る。準備したものを吐き出す。上手くいくことも、いかないこともある。しかし、その時だけ、息をしていると感じる。嬉しさも悲しさも、生きるという感覚に戻って来る。
「この仕事が天職だ」なんていう話ではない。向いているかどうか分からない。その問いに結論を出すことは一生ない気がする。だから、もがく。もがきながら、息継ぎをする。苦しいのに、何で泳いでいるのだろうと自問自答する。でも、泳がなければ、潜ったままになってしまう気がするのだ。ひたすらに泳ぐ。今日も授業をする。

私には、今、そういう場があってよかったと思っている。様々な不安がよぎることもないではないが、一応、バランスを取りながらやっている。
そういう場がない、もしくは極端に減っている人がいる。芸能に携わる人達だ。
「生みの苦しみ」とはよく言ったもので、制作期間は楽しいことだけではない。その大変さを、「作品を完成させる」とか「ライブでさらけ出す」とかを経て、生活全般が上手く循環していくのだと思う。
今、自分はそういう「制作→披露」の循環があってなんとか生活できているな(いや苦しいけど)と思うと同時に、披露の場がないたくさんの人達のことを思う。

早く、今までみたいに人と人が会えて、集まれて、気持ちの交換ができるようになればいいのに。

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