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仕事とは思い出づくりだった

コロナ禍以降仕事について書き溜めていた文章がいくつか発掘されたので、供養2本目。


2022年2月24日 18:07に下書き保存

昨年末からフルリモートワークの会社に転職したので、絶賛リモートワーク中である。以前はリモートといいつつもなんだかんだ週2〜3は出社していたのが、完全にリモートになった。といっても、週一で出勤奨励日のようなものがあるので、その日には出社することにしている。が、基本はフルリモートである。

リモートで仕事する上でこれまで大事だと(そして明らかに自分に足りていない)と思っていたのは集中力だ。リモートワークで、特にベッドの横に作業スペースがある自分にとって、まず集中し、さらにその集中力を維持するにはそれ相応の努力が必要だった。そもそもまず集中、というところに持っていくことすらなかなかできないでいる。

取り掛かるのが面倒な、深い思考が必要な作業はどうしても後回しになり、本来苦手なはずの事務作業や比較的どうでもいいような作業ばかり捗る。本質的な作業に思考のリソースを配分できるだけのパワーが沸かない。

なのでそんな集中できない自分を責めるわけで、当然自尊心も損なわれていく。幸い今は同棲していて話し相手がいることが、コロナ前にリモートワークがはじまったとき、仕事が進まずに悩み苦しみ、うつの診断までついてしまったときとの大きな違いではある。

リモートワーク開始当初と生活環境が変わっても、やっぱりつらい。つらいが、一方で強制されなければ、人間というのは快適な方を選んでしまう。リモートマジ辛いっす〜と愚痴をこぼしつつも、「じゃあ出社しないまでもカフェとかで作業したらいいじゃん」と反論されるとグギギ、となってしまう理由には、このジレンマがある。つらい、されど快適。このジレンマに押しつぶされて肝心の生産性は上がらずに、じわじわと差し迫る焦燥感で足踏みしているのが現状である。

正直、そんな焦燥感を消すために、このご時世に、だとか、この緊急事態に、とかの世間から見たら望ましくないことをしているという罪悪感を抱えたままこっそり飲みに行ったりもする。

そうして飲みに言ったりしても、そこで話題になるのはたいてい、リモートワークに突入する前の思い出話が多い。誰々がやらかした、とか、イベント終わりにオフィスでみんなで一杯やったとかの思い出話。

そんな些細な日常の思い出が、ひたすら決まった場所でPCを叩くリモートワークでは発生しようもない。そこに自分は寂しさを感じているのではないか、という仮説をぼんやりと考えていたとき、まさにそのことについて書いている記事があった。

最低限生活に必要な分を稼げればいいし、やりがいも求めていない自分にとっては、極論、仕事に求めていたのは「思い出」だったんじゃないか。

やりがいを求めていないというのは嘘かもしれないが、今は求めるパワーすら失われてしまった。今の自分は、仕事に対してやりがいや稼ぎを求めるような前向きな心持ちも持てずに、ひたすら、目の前の仕事に向き合う苦痛から逃げている。それはリモート以前も同じだったかもしれないが、周りの人たちに支えられて、なんとか持ちこたえていたにすぎない。フルリモートになったことによって、人間関係でなんとか持ちこたえていた楔が、押し流されてしまった。

人間関係の中で、好きな人達と一緒に何か楽しいことをする。仕事そのものではなく、そこで生まれる他愛ないやりとりを愛していた。仕事終わりに、誰ともなく「行ける?」ではじまる飲み会が好きだった。

そう気づいたとき、なおさら今後の仕事人生に対してポジティブな展望を持てなくなってしまった。たとえコロナが収束しても、リモートで快適な人がいる以上、選択肢が消えることはないだろう。そして選択肢がある以上、自分という人間は快適な方を求めてしまう。

思い出が生まれようのないリモートワークを、それでも快適さのためだけに選び続ける人生。緩慢な地獄。それって、本当に求めていたんだっけ?と、今日も自問自答している。

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