見出し画像

1886

渋谷のカフェで星野源を聞きながらこれを書いている。18時から後輩と飲む前に一緒に作業しようと言っていたが、すでに3時間ほど遅刻されているし、このまま一人で待ち合わせ場所に向かう気がしている。

初めてnoteに投稿するにあたり何を書こうか迷ったが、特に何もなかったのでつらつらと書いてみることにする。

渋谷のボッシュカフェの店名には1886という数字が踊る。ボッシュが1886年に創立された?のがその理由なのかも知れない(確認していない)が、1886年というのは、日本で言えば明治初期。そんな時代から2018年の今まで存続している企業は一体どれくらいだろう。そんな時代に会社を興すというのはどんな気持ちだったのだろう。

最近やっと、編集やライティングが以前ほど苦ではなくなってきた。今でもそれはすごく難しい作業ではあるけれど、材料を集めて、それを文章という形に組み直していく作業は、小さい頃にレゴブロックで自分の好きな建物や乗り物を作っていたときの感情に似ている。

この前参加した編集者向けのイベントで、ある大物編集者のひとは、先輩に学んだ一番大きなこととして「自分の中には何もないから、徹底的に他人のやり方をパクれ」ということを言っていた。意味するところは、他人を徹底的に真似すれば、理論的には自分も同じことができるようになる、その先にやっと独自性が生まれる、という話だと思う。

「パクれ」というのは仕事の上でも一般的に言われている気がするし、世間一般的にも正しいといわれている気がする。「守破離」という言葉もある。でも、自分の中に価値がある何かがある、それを社会で発揮したい、と信じて生きてきた人間には、その指示は案外残酷だったりする。自分を殺して、ひたすら他人の考えを脳内にコピーアンドペーストしろ、お前の考えには価値はない、と言われているのと同義だから。

西村創一朗さんの記事に、こんなのがあった。

優秀なスキルを持った新入社員が、型に嵌めることをよしとする上司に「会社人化」されることを憂いた記事。こうしたことはいつの時代もあったはずだし、いつの時代も若者と上の世代の対立は問題になる。ただ、最近特にこうしたことが問題として認識され始めていると感じる。

それはおそらく、ミレニアル世代やデジタルネイティブといった言葉も関係してくるんだろうけど、本当の理由はわからない。ただ、あきらかにインターネットを通して弱者が声を上げやすくなっている社会になっているのはそうなんだろう。型に嵌まることを嫌う個の時代。

AI企業へ取材をしていて、ルールのあるものはすべて機械に取って代わるんじゃないか、というのは肌感として感じるけれど、だからこそ今、日本型の教育をして型に嵌めてしまうことは、機械に奪われる仕事にわざわざオプトインさせることで、それって時代に逆行してんじゃないか、と感じる。

一旦今までのしきたりや儀式的な礼儀を疑ってみるのが、前の会社やめて今、結構楽しくやれている今の自分から下の世代へのメッセージです。今も怒られ叱られしているけど、なんだかんだ楽しいよ。生きてこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?