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ロードマップを描こう

メンターとなった人に、まさかそんな風に言われるなんて思ってもみなかった。てっきり、会社で定年退職までやりきるように言われると思っていたからだ。

僕の人生の相談に乗ってくれた方々で、公平なものの見方をされる方々は、「おまえは所詮サラリーマンなのだからサラリーマンとしてやりきれ」とは言わなかった。むしろ、「あなた、サラリーマン向きじゃないでしょう? 大丈夫ですか? はやく本来の生き方に戻っては?」とおっしゃったのだ。

「あなたは会社で働くこと自体に合っていない」などと言われたのは、これで二回目だ。転職して入社したばかりなのに。

かくして、かねてから抱いていた違和感に意味が付け足され、僕は人生のロードマップを引き直す必要に駆られたのだった。

シナリオ・プランニング

そういうわけで、かつて未来を予測するために読んだ本を引っ張り出してきたのだが、苦笑いするしかない。基本的に未来は予測できない。当たり前だ。

我々人間にできるのは水晶玉で未来を占うことではなく、こういう未来にならせよう、というシナリオを複数持っておくことなのだ。それは環境起因のこともあるし、自身が切り開くものでもある。ただし、当て物じゃないのだから、当たるわけもなし、一方で根性見せて当てに行くものでもあり。

ところで、僕はサラリーマンとして大成したいという夢がある。末はCOOだ。会社のことをなんでも見られるからだ。けれど、裏の夢は小説家だし、その裏にはプログラマーとして新サービスを展開するというものまである。小さい頃の夢は漫画家だったし、裏の夢はストリートファイターだった。要は、相当に散漫なのだ。これではシナリオ・プランニングどころの話じゃない。

こんな状況を見かねて、メンターさんはおっしゃった。あなたの脳では複数のものが走っていませんか? すこし落ち着いてはどうでしょう。本当の軸はどれですか?

未来はすでに過去形だ

実のところ、企業活動のほとんどは、未来のことを言うにしても、全部過去のことにすぎないなと思っている。「これから○○の時代が来るから××人材の育成を」「□□の世の中に変わるので、ここに投資しなければ」どんな表現でもいいけれど、企業の偉い人の話す未来像というのは、すでに誰かが予兆を作り出したものに過ぎない。

そういった意味で、すべての未来は過去なのだ。ちょっと誰が言ったか忘れてしまった言葉を引用すると:

未来は過去に属する。そして、過去はすでに未来なのだ。

効率的市場での投資を考えるとわかりやすい。何か儲かる予兆が見えたときには、市場価格にはその情報は織り込み済みだ。だから、今更何かをやったって儲からない。逆説的だけど、「これは絶対に儲かるぞ」というビジネスを誰かに言われて、しかも証拠も盛りだくさんもらったときには、すでに遅いというわけだ。

なのになぜか、一部の企業のエライ人というのは、「それは絶対に儲かるのかね?」「前例はあって、それをやった人は儲かったのかね?」などということを気にする。それじゃあ勝負には勝てない。

かゆいところに手が届く

新しい商品のアイデアというのは、得てして何かが不足するのだ。『「10年後の自分」を考える技術』においては、こういったことはアフォーダンスと呼ばれるという。

たとえば、その昔デジカメは画質も悪いし重いし大変遅かった。そこへいくと、一眼レフカメラは(重いけれど)信頼できる代物だった。だからこそ、誰もが思っていたのだ。「デジカメなんか普及しない」と。

ところがどっこい、デジカメはかつてのデジカメのままではなかった。どんどん画質を向上させ、軽くなり、起動は速くなった。そうして次第に、一眼レフカメラを持つ必要性をひとつひとつ奪っていったのだ。いまでは一眼カメラのほうがデジタル化する始末だ。

過去の情報をいくら集めても未来にはならない。

もしゴミのような製品が出てきたら、ひとしきり笑ってもいい、笑った後に、この商品がどう変わったら脅威になるか考えてみよう。

そんなゴミのような製品を売り出した側は、間違いなく違う未来を見ているのだから。

マージナルサクセス

とはいえ、売れない商品が一発でバカ売れ商品に化けるなんてことはほとんどない。商売に疎いタイプの経営者は突然大儲けしたがるけれど、儲かる商品になるまでには小さな改良を無数に施していく必要がある。

ビジネススクールにいたとき、人生の成功はマージナルサクセスだと先生がおっしゃっていた。マージナルサクセスという語はわかりづらいのだけど、僕なりの翻訳を掛けると、「ギリギリ勝てた」ということだろうか。

たとえば、音楽家の卵を考えてみればいいと思う。

中学生にしては楽器を弾くのが多少上手い子が、先生には呆れられながら練習し、それでもほぼビリで音楽科のある高校入試に受かった。高校音楽科でもやっぱり練習したほど伸びないのだけれど、声楽に転向してみるとそこそこうまくいき、音大にギリギリ入学。卒業後は就活でもイマイチで、全然就職先は決まらないが、同人ゲームのBGMを担当することになり、バイト代で食いついないでいる。ところがそのゲームがある日突然日の目を見て、BGM担当者としての自分も話題性が急浮上。YouTubeで新曲を出したりしているうちに、大型演劇の音楽として採用された複数の音楽家のうちのひとりになり、その曲を気に入った有名人がSNSで紹介し・・・・・・。

という、地味なサクセスストーリーだってありえるのだ。

この人の場合、人生のどこでも一位を取ってはいない。けれども、多くの友人たちが食い詰めて音楽をやめていく中で、やめずに続けることができたうえに、どんどん有名になっていったのだ。

もういちど、同じ人の人生を書いてみよう。今度は省略して。

中学生にして音楽の才能のある子が音楽科のある高校、そして音大に進学。その後は意気統合したゲーム作家のBGMを担当すると作品と共にブレイク。舞台音楽も手がける大型作曲家となり、最近はSNSでも人気が高い。

人は他人が苦労しているところに注目などしないのだ。だから、ギリギリの勝利を重ねさえすれば、いずれ大勝利につながる。不格好でもいい。プロセスとしての不格好さを許せるようでないと、勝利はつかめないということだ。

あなたは、未来は好きだろうか? その未来は過去の顔をしているだろうか? それとも、不格好だけど、今まで見たことのない顔をしているだろうか?

てなことを言っていると、自然、引くべきロードマップは「自明」ではないものになり、それゆえに、評価の難しいものになるわけだ。でもしかたがない。ロードマップはなんだって引けばいい。その上をできるかぎり不格好に爆走することにこそ、意味があるのだから。

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