DSCF1561のコピー

平成しんちう屋へ

たまたまTwitterで流れてきたブログ記事がきっかけで、平塚市美術館で開催されている深堀隆介氏の平成しんちう屋に行ってきた。

抽象画や前衛芸術と呼ばれるようなものは全くわからないが、写実的なものは感性が死んでいてもリアルさという視点で楽しめる。実物を見たときの第一印象は「これ標本じゃないの?」だったが、写真で見てみると生きていると錯覚しそうになる。

制作工程は何となく想像できたが、この緻密さで表現できる人は他にいない。初見だというのにそう確信させる圧倒的なクオリティだった。

それは金魚の造形だけではなく、泳いでいる時の微妙な動作や群れている時の動きが生きている金魚と寸分違わないからなのだろう。

表現の仕方は斬新だが、根底に観察がなければここまで真に迫るものにはならないんじゃなかろうか。解説には苦悩から作品を生み出すに至るまでのことが書いてあった。

興味深かったのは、表現対象の金魚に対しては飽く様子が全くなさそうな記載だったことだ。まず金魚があり、表現手段を考えた結果こういう作品になったということか。

俺自身は撮ること自体に飽きはしないが、同じ対象を撮り続けるのは苦痛になる。俺の目的は撮ることだが、きっと深堀氏の目的は描くことではない。

一度撮るのを辞めて、絵でも詩でも作ってみた方が良いのかもしれない。写真は撮ることそれ自体は簡単だからこそ、いくらでも手抜きができる。

6月末から最低1日1枚撮るのは未だ継続できており、7月は1日も欠かすことなく撮れていたが、果たして毎日シャッターを切ることに何の意味があるのか。

毎日撮ることが上達につながる条件は、まず間違いなく密な観察がある。では7月に撮った写真はどうだっただろう?

ああ、自分のことは自分が一番よくわかっている。あれはただの流れ作業だ。”昨日も撮った”という延長線で、ただシャッターを切っていただけだ。

自惚れるほどの腕ではないが、多少は物の見方がわかってしまったからこそ観察がおろそかになっている。3年前であれば毎日撮ることは確かに上達に繋がったと実感できた。しかしそれで上達できるところまで来てしまったら、同じことを繰り返しても意味がない。

俺は撮影の時に何を考えているのだろうか。露出やシャッタースピード、ISO感度の設定か?それとも構図か?一番に考えるべきは被写体だというのに、おそらくそれが抜け落ちている。

マニュアルで撮るのは確かに上達するだろうが、観察という点で言えば良くない。観察に向けるべき神経がカメラのパラメータにいくらか向いてしまう。

そんなことを考えさせる展示だった。

一度写真から離れた方がいいのかもしれない。もちろんレンズにカビが生えない程度には撮るし、依頼されたり親友の娘は別だが。

表現として写真を極めるには、まず自分が表現したいものが何かを明らかにしなくてはいけない。今まで何にも考えずにシャッターを切っていた分、これは地獄の作業になるだろう。

会期は長いが、今日は平日だというのに混み合っていた。そうか、子どもたちは夏休みだったな……。

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