喜多流自主公演3月

銀座の観世能楽堂で「西王母」「雲林院」「車僧」の3番。

能における「面」の意味を考える。面があることによる「間接性」や「抽象性」が、見者を眼の前のドラマを超えた世界に導く。
この点は、河井が提起する地域魅力創造革新スパイラルの魅力編集における「ペルソナ」設定にも繋がる。

雲林院において「中将」の面はなぜ眉を顰めているのだろう。伊勢物語の有原業平がモデルだろうが、この雲林院のドラマだけであれば眉を顰める必要がないはず。
しかし、この中将が在原業平の生涯を象徴しているとすれば、そこには華やかな中に多くの苦しみがあったことが、その背景に置かれているとも考える。

そうなると、中将は雲林院の登場人物ではなく、中将=業平が雲林院という場面を通過していると考えることもできる。切り口としての舞台という発想もあり得るだろう。

さらに、中将は業平そのものではなく、「業平」的なものとして考えることが、より適切なのかもしれない。

雲林院については、「帰依」ということについても考える。これは、この国の特徴かもしれないが、神は相対化され、むしろ和歌や物語というものへの帰依という思考が可能かもしれない。
ここでも、地域魅力創造革新スパイラルの「挫折を含んだ物語」による地域特性の明確化に関わる。

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