見出し画像

置かれていたパン

忘れられた部屋には、忘れられたように机の上にパンが置かれていた。そこには卵やバターがあるわけではなく、───もちろんジャムなんてものもなく、埃をかぶってお皿の上にパンが盛られていた。マンションの6階にある部屋だったので、あいにく、そこを通っていく人はほとんどいなく、いたとしても、5階の住人がまちがえて登ってしまったときぐらいだった。そもそもエレベーターというものがその建物にはなかったし、階段には階を示す目印というものがなかったせいで、1つ階を間違えてしまうことがあった。それでも5階に住んでいる彼は、いつもはすんなりと自分の階の廊下にいくことができた。───階段をのぼって廊下がみえるたびに、何階まであがってきたとか、そういったことをすることもなくだ。間違えるのは、きまって考がふと頭の中をよぎっているときにだった。それは普通の人として、当然のようにそうするように、ごく普通のこととしてのなんでもないこと───たとえば、新しいノートブックを買おうかということや、夕方に食べるべき夕食の予定のことなんかを考えている時に。

彼がここに住みはじめたのは二年ほど前のことだった。ここの近くになにかしらの用事があり、知人と待ち合わせをしているときに、予定の時間よりも早くついてしまったので、そこにあった不動産屋のウインドウに貼られている物件をみていた。───彼は手持ちぶさたになると、よく貼られている物件を眺めた───そこにこの部屋が貼られて、紹介されていたのだった。間取りがおもしろく、一つづつの部屋がとても広そうだった。家賃は安いとはいえなかったけれども、広さのわりには安くは感じたし、今住んでいる部屋の狭さにすこし前から不満を感じはじめていた。知人との予定を終えると、そのままその足で不動産屋に行き、ウインドウのその物件のことを尋ねて説明を受けた。そこは部屋としてはとてもいいのだけれど、エレベーターがついていない5階の部屋ということで、あまり住みたがる人がいないということだった。「日当たりもいいし、とてもいい部屋なんですけどね」と不動産屋が言った。ひとまず見にいきましょうかということになり、そこにむかい、見終わったあとにはすぐに引っ越しを決めていた。

パンが埃をかぶりながら、どれくらいの時間がたったのかはよく分からなかった。もちろん食べて確認することもできないし、そんなことをしたところで彼にとってとくに何も得られるものはなさそう───お腹をこわしたり、ひどく不味い思いをしてしまうのが分かりきっている───ので、テーブルから70センチほど離れたところに立ち、置かれているパンをみていた。埃をかなり被っていたものの、表面はしっかりと硬いままその形をたもっていた。彼が6階の部屋に間違えて入ってしまったのは、ただの間違いにすぎなかった。行くべき階というものを1つ間違え、開けるべきドアというものを間違えてしまったのだ。間違えに気がつくまで考えごとをしていたけれども、それはその部屋に入ってしまったときに忘れてしまった───とくに重要なことを考えていたわけではなかった。

そのまましばらくそこに立っていた。どのぐらい時間がたったのかは分からないし、そこの部屋にいると時間の感覚があまりつかめずに、さっきまで夕方だったのか、それともお昼すぎなのかということが分からなくなっていった───そういえば部屋には窓がないことに、しばらくして気がついた。音も光もほとんどないその部屋にたっていると、妙にのどがかわいてきた。

〈自分の部屋に戻ろう〉

テーブルから後ろに向きを変えて、一歩すすんだ。そして、もう一歩というところで、ふとまた、テーブルの上のパンのことが気になってしまった。ふとそれが気になったのだ。振り返ってそこに置かれているパンをみると、テーブルに近づいてそれを右手で一つつかみ、コートのポケットに入れた。そしてまたもう一つと、コートのポケットにつっこんでいき、全部を入れ終えるとさっと部屋をでた。廊下をすすんで階段を降りていった。ポケットは必要以上に膨らみ、歩くたびに大きく動いて足にぶつかった。5階の自分の部屋のドアを開けて、そのままキッチンにいき、そこにあるグラスで水を飲んだ。もう一杯、もう一杯と水をついで飲んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?