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広告と思いやりと社会のバランス

さて、つい昨日ですか。
ネットで炎上したこの広告について、
私は2つの問題点を感じました。
 
ひとつは送り手側の問題点。
もうひとつは、受け手側の問題点です。
 
広告というものの近年の姿について、
非常にストレスフルな感覚を持っていますが、
人の心に土足で踏み入ることを是とすればするほど、
人は警戒し、不信感を持ち、
心の扉を閉ざすものだ、ということを理解すべきでしょう。
 
仮にも広告は人との
コミュニケーションなのであるとうたうなら、尚更です。
 
まずは送り手側の話からしてみましょう。
 

 
送り手側から見た広告には、
3つの側面があります。
 
「誰に?」と「何を?」と「どんなふうに?」です。
 
「誰に?」はターゲットと言われるものですね。
伝えようとしている相手です。
 
「何を?」とは、メッセージの内容や、その表現方法ですね。
どんな広告クリエーティブなのか?ということ。
 
「どんなふうに?」は放送や掲出の仕方、届け方です。
 
今回の場合、ターゲットはビジネス街で働くサラリーマンですね。
電波媒体や紙媒体とちがい、
屋外広告はターゲットの狙い撃ち度が極端に高くなる場合があります。
 
もちろん、どんな場所なのか?にもよりますが、
サラリーマンに対してビジネス街の最寄駅というのは、かなりガチですね。
 
今回の場合、品川駅でした。
 
広告クリエーティブの中身は、
「今日の仕事は楽しみですか。」
というコピーだけのシンプルなビジュアル。
 
かなり強いですね。
 
その強さは、2つの要素から来ていて、
ひとつは無駄を削ぎ落としたデザイン面。
もうひとつは、微妙に意地悪な「言い方」です。
 
ここが、かなり問題なのだと思います。
 
意地悪なんですね。
どう意地悪か、というと、読む人の心の中に
微妙な不快感とともに刻まれる手法を取っていることが、です。
ネットには炎上商法という言葉がありますが、とても似ていますね。
わざと癇に触るようなことを言って騒ぎにする、ということ。
 
広告はターゲットの心にメッセージを届かせ、記憶させることが目的です。
だから、この広告はその目的を果たしている。
 
しかし、記憶というのはポジティブなものとネガティブなものがあって、
後者の方が簡単であり、かつ、心の傷になりやすいのです。
 
丁寧ではなく、乱暴な技法と言えます。
 
心のドアをノックし、本人が開けてくれるのを待つのではなく、
無理やりドアを蹴破るイメージでしょうか。
 
トゲのある広告というのは本当に気をつけて作らないと、
今回のような結果になりやすい。
クリエイターのエゴがマイナスに出てしまったかな、と感じます。
 

 
けれど、この意地悪なコピーも、新聞の全面広告や、
仮に交通媒体にポスターを掲出したとしても、
たった一枚だけなら問題にはならなかったでしょう。
 
このジャックのスタイル、つまり「どんな風に」がまた、
良くなかったんですね。
 
もちろん、心に刻むという目的は果たしていますが、
この意地悪な言葉とのマッチングが良くない。
なぜなら、そこに送り手から受け手への「思いやり」がないからなのです。

導線を利用して、逃げ場がない生活者に対して、
容赦無く言葉の銃弾を打ち込んでしまいました。
 
この「どこにも逃さないぞ」という態度、姿勢が、
嫌悪感を増幅したのでしょう。
 
あれは、1985年だったでしょうか。
タイガージャージで有名な慶応大学ラグビー部が、
久々に優勝した年がありました。
 
その年の同部の一年を追いかけたNHKのドキュメンタリーがあって、
タイトルは確か「慶応、魂のタックル」でした。
 
私はその番組が好きでいっとき何度も観たのですが、
そのオープニングはこんな映像でした。
 
カメラが主観で部室に繋がる通路を進んでいきます。
そこに延々と張り紙がしてあるのです。
 
書いてある言葉、「タックル」
 
「タックル」「タックル」「タックル」
 
走ってくる相手に体当たりするというのは、とても怖いものです。
その恐怖心に打ち勝ち、相手に低く強烈なタックルを浴びせる。
それがこの年の慶應のラグビーでした。
 
その執念にもにたタックルへの拘りは、あの張り紙の一枚一枚を
毎日繰り返し目に焼き付けることで実現されたのでしょう。
 
これはまさに、格闘スポーツとしては、
いい意味での「洗脳」なわけですが、
ちょっとちがうものとして、オウム真理教の問題が持ち上がったとき、
「修行をするぞ!修行をするぞ!修行をするぞ!」
という連呼が話題となりましたよね。
 
教祖の声による連呼が、
人の心理に影響を与えた、ということが、当時、取り上げられました。
 
音でもビジュアルでも、連呼による刷り込みというのは、
使い方によって非常に危険な要素をはらんでいるので、
実施するときはとっても注意が必要なのです。
 

 
でも、連呼が必ずしも悪いわけではありません。
かつての佐藤雅彦さんの名作CMの数々を引き合いに出すまでもなく、
好例だってたくさんあります。

例えば今回の広告からも想像して欲しいのですが、
もしコピーが、「今日の3時のおやつが楽しみだ」
というものだったら、どうでしょうか?
 
連呼による擦り込みは承知の上でも、
それほど嫌な気持ちにはならないでしょう。
 
つまり言葉とその出し方の組み合わせに、
記憶にさえ残せば、どんな手段でもいいのだ、
という勘違いが起きていることに、送り手側の問題があるわけですね。
 
その場にいる人への思いやりが欠如してた、
という広告人格の至らなさです。
 
気をつけなければいけないと思います。
どんなに心に残っても、
悪いイメージでは広告を出した意味が逆効果ですもんね。
 

 
さて、今度は受け手側の問題点についてです。
とは言っても、通行人に問題があるわけではありません。
 
この広告が炎上した、という現象に目を向けなければいけない、
という意味です。
 
この広告が不快になる心理を見つめてみると、
仕事というものと、
それに従事する労働者の心理的な関係性が不健全になっている、
という現実が浮かび上がるわけですね。
 
「今日の仕事は楽しみですか?」と聞かれたところで、
実際、今日の仕事が楽しみな人なら、
「はい!楽しみです!」で終わりかも知れない。
 
でも、多くの人に不快感が生まれたのは
「仕事」というもののポジションが、生きるために仕方なくやるもの、
ということになってしまっている今の社会に原因があるのですね。
 
人は苦しくてもやり甲斐を感じられれば頑張れます。
 
しかし、お金のためだけが目的になると、
仕事は収入のために我慢してやるものになる。
途端に「労力は最小限であれ」となってしまう。
 
人と労働の関係が、お金によって根本から歪められているという、
その現実が、この炎上から見て取れるわけです。
 
送り手側の問題は広告業界の出来事ですが、
受け手側の問題は、現代社会の根深い傷です。
 
そもそも、このような広告が生まれるのも、
潜在的に仕事にネガティブなイメージがあることを利用しているわけで、
あらゆるレイヤーで負のスパイラルが起きているということですね。
 
もしかすると、広告クリエイター本人も、
仕事が楽しくないのかも知れません。
どれも大きな問題ですが、
社会の意地悪なムードを助長することは、みんなを不幸にしますね。
 
広告によって、社会の寛容さが
さらにすり減ってしまうことは、避けたいものです。

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