見出し画像

「信じるチカラ=心の筋力」の低下が引き起こす、この国の未来

最近の日本はどうしてこんななのだろうと、
毎日、毎日、考えています。

そこで思ったこと。

日本人は「信じる」ということに対して非常にネガティブになっています。
その原因はひとえに明治維新以後に
天皇を中心とした宗教国家を作ろうとし、
先の敗戦によってをそれを全否定されてしまったという
歴史的な背景によるものだと思います。

もともとの日本人には自然崇拝のような気質はあって、
日本にまったく宗教やそれに似たものがなかったわけではない。
仏教や神道や、その他の宗教がうまくミックスされて、
なんとなく共通した日本的な美徳は存在していたことでしょう。

ただ、明治維新のときに、天皇を強く信じるということを
国をまとめる手段として用いた結果、
何かを信じることは危険だという結論に至っているわけです。

しかし、酷い戦い方の戦争をし、それに負けたことと、
何かを強く信じることは、実は別のことなのです。
国家が国民の「信じるチカラ」を利用しようとしただけであって、
信じることそのものが悪なわけではない。

もっと言えば、信じるチカラというのは
心の筋力なのであって、何も信じるものがない人というのは、
やはり何をするにも足がかりがないので、
全体としては弱くなっていきますよね。

日本人は新自由主義に明け暮れる資本主義に翻弄されていますが、
それをやっているアメリカ人には、ちゃんとキリスト教がありますから。
私たちが輸入する西洋の文化には、その背骨の部分に
ちゃんと信じる力があって存在しているものがほとんどですが、
日本人にはそれがないので、外側だけを取り入れてしまうわけですよね。

そういうところに、今の日本の弱さ、文化の薄っぺらさを痛感しています。

例えば体育会の運動部は古いもの、
悪しきもの、淘汰すべきものと思っている人が多いです。

「根性」なんかもそうですね。

でも、それらは、日本という文化の中で
ちゃんと信じるものを持つスキルを身につけるものなのです。

米英(恐らく欧州でも)では、
実は、個々人が生き抜く環境の中で毎日競争にさらされ、
そこでそれぞれが根性を養う文化を持っていますから、
彼らはものすごい根性があるんですよね。

それを根性と呼んでいないだけです。
彼らは集団になった時に根性を要求するのではなく、
事前に個々で根性を養って、その根性を持ち寄って集団に参加せよ、
というスタンスなんですよね。

でも、日本には毎日の生活の中で根性を養うシステムがありませんから、
運動部とか、そういう集団の中で
根性を鍛えていくという文化をつくったわけで。
偶然、軍もそうしたからといって、それが必ずしも悪なのではない。
そういう事情を理解せずに、西洋みたいなやり方の方が合理的だ、
なんて言っていると、
国民の大半が根性なしの国家ができあがってしまうわけです。

それが「今」だと思うんですね。

根性がないことは、すなわち「信じるチカラが弱い」ということであり、
心の筋力が弱いということであって、

何かを信じて頑張っている人を冷笑したりする人が多いのも、
彼ら自身の心の筋力が弱いことを誤魔化している行為だと思っています。

笑って誤魔化す。
頑張っている奴を笑い物にして引き摺り下ろして、
低いレベルで揃えようとする。

それが今の日本で行われていることではないでしょうか。
そうすると、何が起こるのか。

自分の力で社会を変えていこうとする
主体的な人間がいなくなるんですね。

何かを信じて頑張るという世界に足を踏み入れることは、
とても勇気のいることです。
しかしそこにあるのは「主体性」ですから、
人から見ると大変そうなのですが、本人は実はものすごく充実している。
生き甲斐を感じているのです。

楽しいことや、生き甲斐を感じることというのは、
見た目は苦しそうな場合もあるのです。
やってるそばから笑顔であったり、ヘラヘラすることはありません。

真剣ですからね。

でも、そういう「打ち込むもの」を持っていることこそが
人間の心を幸せな状態にするのです。
自分では何もせず、人の文句ばかりを言っている人は、
自分に打ち込むものがないことを僻んでいるんです。

でも、そんなことをしても、幸せになることはありません。
幸せとは「主体性を持った行動」の先にしか存在しないからです。

政治の話をされると、本当に嫌悪する人がいます。
選挙の候補者が演説をしていると、
親の仇でも見るような目で睨みつける人もいます。

そのマインドがどこからくるのだろう、とずっと考えているのですが、
やはり、それは、本来、参加すべきであるということはわかりながら、
そうしていない自分に対して、
「ちゃんと真剣に考えていますか?」と問われているようで
嫌なのではないでしょうかね。

強い心の筋力で何かを信じて、社会をなんとかしたいと思う人を、
そうなりきれないからこそ、疎ましく思う。

クラスで積極的に真剣に発言する生徒や、
学級委員を笑うようなスタンスに似ているのかも知れません。
「なに真剣に、がんばっちゃってるんだよ」と。
「マジになるなよ」と。

でも、心の筋力というのは、実は誰にとっても重要なことだと思います。
それは人間社会を生き抜くチカラそのものであるし、
もしかすると野生動物だって同じようにがんばっていることであって、
この世を生き抜くチカラなのかも知れないとさえ思います。

先日、アベマ・プライムに衆議院議員の小川淳也さんが出演した時に、
番組の司会者がわざと腹の立つような質問をして小川さんを怒らせ、
それを「私は政治を知らない素人だ」と公言する若手芸能人のゲストと
一緒になって、笑い物にするシーンがありました。

これが今の日本だなぁと思いながら見ました。
けれど、そういう国に、健全な未来が存在するとは、私は思いません。

「政治のことは何もわかりませんが」と前置きしながら、
政治家を叩く若手の芸能人を「生活者代表」のような体で
テレビに出すことは、
長い目でみてこの国を崩壊に向かわせます。

この国を破壊することがメディアの仕事なのでしょうか。

日本の市民の社会参加の意識レベルが低いことが
この国を散々な状態にしているのに、
それを助長するようなことをするのは、やはり数字のためでしょうか。

そういうゲストはだいたいにおいて、
「あなたは何をしてくれたのですか?」と言います。
与党と野党の仕組みも知らないからですね。

「野球のことは何もわかりませんが」という人間をゲストに呼んで
野球選手をコケにするような発言をさせるでしょうか。
そしてそういう番組は決まって、与党の人間には同じことをしません。
野党にだけ清廉潔白を求めて、小さなミスをあげつらい、
世間の笑い物にする。

もし「強者におもねる」という態度をするなら、
それは最初の方に書いた「日本的な美徳」からは正反対にあるのであって、
そういう人は恐らく「お金」だけを信じているのでしょう。

日本人から「信じるチカラ」が失われている。
ここでいう「信じる」とは、ラクなものを信じることではありません。

がんばりつづける原動力になるようなものであって、
だから「心の筋力」と言っているわけですが、
日本人の心の筋力の低下は、そのまま感性、感受性の低下であって、
文化レベルの低下、意識レベルの低下、リテラシーの低下を意味します。

こういう状態をつづければ、そう遠くない未来に、
この国は崩壊してしまうと思いますが、
それもまた人間の歴史なのかも知れないなぁと、
最近は半分達観しています。

アメリカの先住民の人たちが、高い精神性を持った文化を築いていながら、
渡ってきた英国人たちに駆逐され、今は殆ど姿が見られなくなったように、
日本も「かつてこういう人たちがいたんだよ」と言われる存在になって、
この地球上から殆ど姿を消す運命にあるのではないでしょうか。

悪しき教訓だけを残して。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?