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なぜ人は、山の中では挨拶をするのか

山登りやハイキングをしたことがある人は多いと思います。
山道で人とすれちがったり、
人を追い抜いたりするとき、「こんにちは」とか、
「いい天気ですね」などと声をかけることが多いですよね。

あれはなぜなのでしょうか。

街の中で、大都会の中で、
見知らぬ人とすれちがうときに
「こんにちは」と声をかけている人はほとんどいません。

少なくとも日本にはいません。
どうしてだと思いますか?

どんな心理的な要件が働いているのでしょうか?

山の中と街中のちがいは、
ひとつには人の数が少ないということがあります。

さらに自然のなかにいるので、街の中にいるよりは安全性が低いし、
道に迷うということと、それが自分の生命の危険に
どれくらい繋がっているかという度合いが高いはずです。

例えばあなたが今、
人間が10人座っている部屋に通されたとします。

知らない人ばかりだと不安になります。
けれどその中に一人だけ知っている人がいたとします。
あなたは恐らくそのことで少し安心するでしょう。

誰かに話しかけるとしたら、その人である可能性が高い。
それまで話し合ったことがない人であっても、です。

つまり、なにで安心できるか、というのは時と場合によって
その条件が変化するということです。

山の中にいると、人間の存在そのものが大切ですから、
それが誰であろうと近しく感じるし、
その人とコミュニケーションをとることへの障壁は下がるのでしょう。

私は東北の震災があったとき、たくさんの人と接し、
企業という立場ではあってもいろいろな仕事をしましたが、
あのときに感じたのは、
「社会全体の人間性能が上がっている」ということでした。

普段は存在する様々な「事情」をやすやすと飛び越え、
惜しみなく協力できる。
思考も判断も無駄なものがなく、視界がクリアで、
素晴らしい状態でした。

つまり、本来、そこまで人間はできるということなのです。

問題は、それが有事の時しかできないということです。
少なくともそう思い込んでいること。
でも、いつも有事だと思っていれば、
それだって克服できなくはないでしょう。

山の中を行くというのは有事ですから、
普段の街中とはちがう判断基準で行動するわけです。

その基準のまま街中で生きることができたら、
人間社会の様々なトラブルは、少なくとも今よりずっと少ないでしょう。

でも、今は有事ではないのだから仕方がない、と思いますか?
では、何が有事なのでしょう。

今、私たちはまさしく有事の中にくらしています。
それは持続可能性の毀損という有事です。

その有事は衝撃の波が一見緩やかなので、
地震災害や戦争とちがって意識しにくいという点がありますが、
実際にはとんでもない有事なんですね。

巨大なものというのは動きがスローですからね。

人間は、例えば満員電車の中のように人間がたくさんいる場所では
他者を迷惑な存在だと認識しますが、
山の中のような人間のいない場所であればありがたい存在だと認識します。

しかし、それは実は気持ちの持ちように過ぎないとも言えるはずです。
近所の保育園の子供の声が迷惑だと感じるのは
子供たちの存在を当たり前だと思っているからであって、
それが誰もいない不安な山の中であれば、
その声はあなたの心に安心と安らぎを与えるでしょう。

人間が人間らしい感覚を発生させるには、
外的要因としては都会よりも人の少ない山の中ような場所の方が
人間の存在を必要だと思えるのかも知れません。

山の中という環境は、人間を対立ではなく
融和の方向へと向かわせる力があるように感じます。
普段はいろいろ複雑な気分があっても、そういう場面では良い人になれる。
少なくとも、良い人の側面が強調される。
そんな現象が起きている気がします。

山の中で出会った人と関係ができれば、
その人と街の中で出会った場合でも、
いい関係を維持できるかも知れませんね。

しかし内面の問題をクリアするスキルを身につけることができれば、
都会にいても人間の存在の解釈を変えることはできる可能性があります。

海外の方は、日本人よりも
他人に話しかけることが多い印象を持っています。
知らない人に声をかけて、世間話をするということです。

エレベーターに乗り合わせた人に話しかけられるなんてことは、
私も経験がありますが、海外ではそれほど珍しくはないと思います。
日本人にそうされることはほぼ皆無です。

答えはありませんが、いつも山の中にいるような気持ちで生きられれば、
今より心の平穏やしあわせの度合いが大きくなるような気はしました。

どうでしょうか。

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