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日本語文化と教育と大麻事件について

私は仕事柄、ワークショップをやったり、
ファシリテーションをすることがあるのですが、
提供している思考の教育プログラムを実施するにあたり、
「コーチングの勉強もされたのですか?」と
質問されたことがあります。

私はいわゆる「コーチング」の勉強は専門的にはしていません。
スポーツチームのコーチはいつも身近に存在していたし、
学生時代からコーチングに近いことを
(自然に)やっていましたが、
技法としてのコーチングは取り入れていません。

それはコーチングがアメリカで生まれたものだからです。

アメリカで生まれたものは正しくない、という意味ではありません。
私がこれまで様々な思索を深めていく中で、
「思考とは何か」ということの真理に向き合ったときに
あることに気がついたからなのです。

それは「我々は言葉で考えている」ということです。
当たり前ですよね。
でも、これこそが我々人類のキーファクターなのです。

音楽家や数学者を除けば、
普通の人間は皆、言葉をつかって思考しています。

それ以外に思考する方法を知りません。
暑いとか痛いとか、そんな感覚的なものに至るまで、
私たちは実際に口に出すか出さないかは別として
頭の中で「言葉」で表現しています。

そうなると、「言葉」が持つ特徴が、
思考に大きく影響するということがわかるはずです。

例えば私たちが使う日本語という言語を考えてみましょう。
日本語の特徴は、ひとつには文法的な習慣です。
主語がなくてもだいたいわかるということと、
結論を最後の方に持ってくるという特徴。

これが私たち日本人の思考工程を特徴づけています。
日本人はグレーな部分が非常に多い思考の傾向を持っているでしょう。
これは、必ずしも悪いことばかりではありません。

これに対して英語は主語が誰なのか(単数なのか、複数なのかまで)を
しっかり示し、把握することが前提です。
また、センテンスの最初の方に
肯定なのか否定なのかを明らかにしますし、
言葉の文化として「Yes or No」という二元論を
その背景に持っています。

言いたいことが非常にクリアだし、誰にも同じ意味を伝えやすいですが、
その分、微妙な機微が排除される傾向があると私は考えます。

もうひとつの日本語の特徴は、尊敬語や謙譲語など、
相手との相対的な関係で表現方法が無数にあるということです。
この日本語の特徴は、人間関係を対等ではないものにしやすい。

例えば「自分」を表す言葉だけでも何種類もあり、
それを家の中、仕事場、友人関係、恋人同士など、
様々な相対的な関係性の中で使い分けます。

私自身、俺、僕、私、パパ、などを自分で使い分けています。
「自分」の使い分けは、それ以外の部分全てにも影響します。
それは相手との相対的な関係の中で自分の位置を
明確化する役割を果たします。

こういうことが、日本という国の歴史や文化を作ってきた根っこにある。
それがいいことか、悪いことかということとは別に、
厳然たる事実としてあるわけです。
(日本でジェンダーギャップがなかなか埋まらない理由も
 ここにあるでしょう)

それに対して英語という言葉は相手が誰であっても、
基本的には同じ言葉でコミュニケーションができます。
それは相対的な関係のバリエーションが少なく、
対等でシンプルであることを意味しています。

コミュニケーションのハードルが明らかに日本語より低い。
年上や知らない人とも話しやすい言語なのです。

逆に言えば、英語で考案されたものを
日本の中で日本人に対して「そのまま」流用するのは
難しいという意味だと私は捉えています。

日本人には日本人に伝える方法が必要なのです。

人間は言語を使って思考しますから、
その言語が持つ特徴は、その人の考え方そのものの特徴になり、
その国の歴史や文化の特徴そのものになるのです。

そういう意味で私は、
日本人には日本人に合ったやり方を考案しない限り、
どんな外国産の教育方法も効果を発揮しないだろうと思っています。

日本人がなかなか英語が話せるようにならないのは、
日本語の特徴と英語の特徴がちがいすぎる点が
本当の原因だと思います。

いちど日本語で考えてから、それを英訳している間は
恐らく英語を話せるようにならないでしょう。
英語を話せる人というのは、英語を話すとき、
英語で思考していると思います。

つまり思考の系統(もっと言えば人格)を二つもつということです。

日本は島国であり、大陸からの文化が自然には入ってきませんから、
外の知識を知った人の多くは、それが正しいとか、
それが最新だと考えます。

確かに閉塞した島国・日本の中では海外の流行は最新だし、
新鮮なものとして受け止められます。
しかし、それが我々の文化に合っているかどうかは、
冷静に考えてみる必要があると思っています。

例えばコーチングがあったとして、
そのような「考え方」やその効果を、
日本語の文化の中ではどのようにすれば発揮できるのか、というと、
それは、アメリカでやっていることを
そのままやればいいということではないはずです。

我々の多くは日本語で思考する文化に暮らしているからです。

ですから、アメリカやヨーロッパで最新のことを
日本(語)でやるとどうなるのか、ということを
想像してみる必要があるんですね。

なぜ、そのようなことを考えたか、
なかなか理解しにくいでしょうが話してみましょう。

「ライフスキル・フィットネス」という著書があります。
吉田良治氏という方が執筆された本で、
学生アスリートの人間教育の重要性について書かれています。
その帯には
「アメリカ大学にみる選手の自立を促すスポーツ教育」とあります。

非常に興味深い内容です。
が、その中で気になることがありました。
「規律」についてです。これは批判ではありません。
むしろその逆です。

アメリカのカレッジの
非常に人間教育に熱心なアメフトの監督の
エピソードが紹介されています。

早朝のミーティングのとき、
彼は開始5分前にはドアを閉め、鍵をかけてしまうと。
遅れて来た学生には
「ミーティングをなんだと思っているんだ!」と怒鳴る。
そうあります。

課された課題をこなすことのできない学生は
練習に参加することを許されず、
ずっとグラウンドを走らされたり、
1日中、腕立て伏せをさせられるともあります。

この本でも取り上げられている
フロリダ大学のアーバン・マイヤー監督のドキュメタリーが
ネットフリックスにあるので、偶然みていました。
「UNTOLD」というタイトルです。

彼は就任中の最初の3年間で2度の全米チャンピオンになるのですが、
就任初年度、軍隊式のアメリカでいちばん厳しい、という
猛烈なトレーニングを行います。
ついてこられない人間を排除するためです。

そうして全米チャンピオンになりますが、
翌年、スターになった選手たちが、調子に乗ってハメを外しすぎ、
次々に逮捕者が出ます。学生は、まだまだみな子どもなのです。
シーズン序盤で(予定通りに)試合に敗北し、
また軍隊式の超過酷なトレーニングに戻します。
そうして3年目にまたチャンピオンになる。
そういうドキュメンタリーです。

そのアーバン・マイヤー監督の指導が、
人間教育をしっかりやっている指導者として紹介されています。
2013年の本なので、今は少しちがうかも知れませんが・・・

繰り返しますが、私は批判しているのではありません。
当然のことだと思っているのです。

ただ心にひっかかることがあるのです。
このやり方を日本で、
日本語でやるとどのようにやるのがいいのか、ということです。

実は、人間教育を実践する日本のフットボールコーチを
私は数人、知っています。

その中の一人が、元日大フェニックスの監督、
内田正人氏だというと、皆さんは心から驚くのではないでしょうか。

「ライフスキル・フットネス」を是非読んでいただきたいのですが、
私が知る限り、そこに書かれたことを
とことん突き詰めてやっていたのが内田監督なのです。

世間ではタックル事件によって彼は悪人ということになっていますし、
この本の著者、吉田氏は、事件後に日大フェニックスに対して
スポーツマンシップの研修を行った、その人です。

今でも、当時の事件以降のチームに関係した方の意見を聞くと、
「内田監督が悪かったのだ」という意見を多々、聞きます。

それはそれでひとつの意見なので、否定はしません。
しかし、実際を理解しているごく一部の人は、
ちゃんとわかっています。

内田さんは選手のために病院に行ったり、
ときには警察に行ったり、ある種、父親代わりのように
様々なことで奔走する監督でした。
それは学生を心から愛し、
やんちゃな彼らを4年間かけて一人前にして
社会に送り出すということをテーマにしていたからでした。

指導を受けた当該学生たちはもちろん、
そのときは内田氏のことが厄介だし、嫌いなのかも知れません。
それでもいいのです。
卒業してから、感謝するわけですから。

彼は日大そのものの人事部長という肩書きも持っていたので、
人事権を使ってなんでも自分の思い通りに動かそうとする
独裁者だと思われていたようですが、
それも実際にはちがっていたようです。

が、日大のOBの方々も含め、多くの人が
人間を偏見の色眼鏡でしかみられないということが、
内田氏の本当の姿を見えなくしていたようです。
(それは今もつづいています)

内田監督は2003年に監督就任後、
低迷していた日大フェニックスをわずか4年で
甲子園ボウル出場に導きました。

当時の低迷レベルは、
「もう日大の復活はない」ように見えたほどでしたから、
指導者としての手腕は確かでしょう。

その後、2011年、2013年、2014年と甲子園に出場。
2015年をもって自らの意志で退任するのですが、
2016年にチームが低迷したことをうけ、
当時の理事長の命を受けて、1年限りのつもりで監督に再就任します。

重要なのは、再就任は自分の意志ではなかったということと、
1年限りのつもりだったことです。
彼は周りの言うような独裁者ではないし、
自分のポジションへの固執もまったくなかったのです。

そのとき、監督をはずれた2016年のたった1年間だけで
チームのモラルがあっという間に低下していたことをうけ、
練習に再び「規律」を持ち込みました。

「これから厳しくするから、辞めたかったら辞めていいよ」
発奮させるために言ったこの言葉で、
本当に20人の部員が辞めていったときには、
たった1年でここまで堕ちるのかと思ったそうです。

その年、2017年、日大フェニックスは甲子園ボウルで関学を破り、
27年ぶりの学生日本一に返り咲きました。

その年を持ってすぐに退任するつもりでしたが、
またも理事長からの要請により、チームに留まることになりました。
その2018年に、あの「タックル事件」は起こりました。

先述のネットフリックスの「UNTOLD」を見れば、
チャンピオンになった後の学生が、
場合によってどのようになってしまうか、よくわかります。

厳しい練習を乗り越えた翌年は、とくに危険です。
それが日大にも起きた。
いや、厳密にはそれを防ぐために様々な「心」の指導をしている中で、
選手に誤作動が起きてしまったのが「タックル事件」です。

この件、私は何度も書いていますが、
内田監督、井上コーチからの「反則指示」は存在していません。
二人は対戦相手を負傷させようと企てるような
悪人ではなかったのです。

私は警察の捜査に協力し、
その際に、刑事さんから直接そのことを聞いています。
二人は対戦相手を負傷させようと企てるような
悪人ではなかったのです。
もちろん刑事訴訟の仕組みとして、
警察は捜査をし、その結果を検察に送り、最終判断は検察がしますから、
検察は起こされた裁判を立件しない理由として
「証拠不十分」というのです。

しかし、警察の捜査から、監督・コーチによる指示はなく、
関東学連のヒアリングや、第三者委員会が実施したアンケートに対して
当時の学生たちが「虚偽の申告をした」ことが明らかになっています。

内田監督と井上コーチは、虚偽によって裁かれてしまったのです。
その後、日本大学との裁判では二人は懲戒を解かれ、
井上氏は日大に復職しましたが、
関東学連は除名をいまだに取り消していません。

内田監督を悪者だと思っているすべての日大フェニックスのOBや関係者に、
私は偏見の眼鏡を外して、
もういちど冷静に考えてみることをお勧めします。
人間にとって、他者を疑うことはたやすいですが、
自分を疑うことはとても困難なことです。

しかし真実に迫るにはそれに挑戦する必要があります。

私は、今回の日大フェニックスの薬物騒動は、
タックル事件からつながっていると思っています。

あの事件は、まだ自分をコントロールする力のない学生たちを
どのように人間教育していくか、
という試みの中で起きてしまった誤作動が、
まるで監督の悪意の末のような架空のストーリーとして
メディアに流布されてしまったことによります。

その裏にはOB同士の私怨と確執があったこともわかっています。

しかしとても皮肉なことは、
日大フェニックスの学生たちの心をいちばん理解し、
思いやっていたのは、内田監督その人だったということです。

他にも口では「学生のため」という人はいても、
実際には個人のエゴの範疇であって、
内田氏ほど深く考えている人はいなかったように思います。

内田監督を排除し、「自主性」の名の下に
誤った自由を獲得した学生たちは、
自らを律することができず、崩壊していきました。

イチローの言う通り、自らを律することができない人間は、
導いてくれる指導者を必要とします。
本人にその気がなくとも、それは必要なのです。
しかし、日大フェニックスはその指導体制を自ら手放してしまった。

誤解と思い込み、レッテル貼り、
大人たちのエゴなどが重なった結果です。

そうして短期的な視点しか持てず、教育的な支柱を失ったフェニックスは、
糸の切れた凧のように、突風に吹かれて飛ばされて行ってしまいました。

自由な気風というのが合う学生と合わない学生がいるということは、
我々は肝に銘じておくべきでしょう。
自主性は決して万能ではない。

教育や成長に万能なのは自主性ではなく「主体性」です。
主体性を身につけていない学生には、自主性は猛毒です。
それを今回の薬物事件は示しています。

今のフェニックスの学生たちは、
これからも自分がフットボールをプレーできることを願っているでしょう。

私もそれを願います。

しかし同時に私が願うのは、このような事態が起こった学生たちが
これをきっかけに人間として成長することです。
ひとつ確かなことは、フェニックスの学生たちが
今はまだ非常に未熟であるという現実です。

私は彼らがプレーできることを心から望みますが、
まずは自らの未熟さを謙虚に認めることが必要だとも思っています。

そのために必要なのは、
この事件を、一部の悪い奴がやったことと思うのではなく、
自分にもその責任の一端があると考えることです。

もっと厳密に言えば、
「自分にも責任があるとしたら、それは何か」ということを
深く深く考えることなのです。

その先に、本当のフットボールガイとしての
道筋が見えてくるはずです。

罪を犯したものも、自分の仲間の一人だったことを
決して忘れてはいけません。
トカゲの尻尾を切れば
それで問題は解決だとしてはいけないのです。

それはかつてタックル事件のときに関東学連がやったことや、
日本大学やフェニックスがやった過ちそのものなのです。
ましてやその人が罪を犯してない場合、尚更です。
それこそが、日本大学と日大フェニックスが犯した大罪の本質なのです。

そのより戻しが、今回の事件です。

最後に、話を戻しましょう。

私たち(の多く)は、英語で思考する人間ではありません。
日本語で思考する人間です。
そんな我々が、人間として成長し、向上するために、
いったいどのような態度をとり、
どのような社会を作っていくのかを真剣に考えましょう。

今のフェニックスにそれがあるのかを考えましょう。
フットボールを教えるだけなら、そんなチームは学生には必要ないし、
日本一を目指すことも無意味です。

若者たちを指導することは
近い未来の国づくりそのものです。

教育とは、そもそも甘いものではありません。
そしてその成果は、その教育を受けたものが
その次の世代に何を教えるのか、ということで評価されます。

そういう視点を誰もが常に持ち続けたいものです。

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