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明日のたりないふたり

もし、人生がジグソーパズルだとしたら、最初は数えるほどにしかピースがはまっていなくて穴だらけだとしても、成長するに従って自然と埋めていけるものだと思っていた。一つ一つのピースが塞がっていけば、最後にはきっときれいな景色が現れると信じていた。それこそが完成形の自分であり、最高の自分であると。

でも実際は、未だ思い描いていた自分とはほど遠く、いっこうに塞がれる気配のない穴を見つめたまま「こんなはずじゃなかったのに」と思うことばかりだ。生きてると傷つくことばかりで、自分を甘やかしてくれない世の中を恨んだり、誰にも理解してもらえないと嘆いたり、うまくやれない自分を呪ったり、成長していく誰かを羨んだり。受験とか就職とか仕事とか結婚とか出産とか、そういう過程を超えていった先にはさぞや「仕上がった自分」がいるはずだと思っていたのに、埋まらない穴は一向に埋まらない。たりないパズルのピースはいつまで経っても見つからない。

先日、「明日のたりないふたり」の配信を見て大泣きしている自分がいた。自分は何に対して泣いていたんだろうか。ただ、画面の向こうで、戦って、負傷して、その傷をさらに自分でえぐって、迷いも、苦悩、もがきも全て晒している二人を見て泣かずにはいられなかった。そんなところまで見せてくれるんだ、と言う思いだった。そして、二人の見せてくれた痛みは、私がよく知っているものだ、と感じていた。

最初は他人や世間から受けた傷でも、そのかさぶたを何度も何度も自分で剥いでしまうことを私たちはやめられない。そっとしておけば治るかもしれないのに、傷があったことも忘れられるかもしれないのに、私たちはいつまでもいつまでも覚えている。時が経って年齢を重ねて立場が変わっても昔と同じ悩みをずっともっていることも、一度捨てた武器をもう一度拾いにいくことも、真っ当な大人になったつもりが擬態化してるに過ぎなかったとしても、それでも生きている上で無駄なことは一つもないのだと思った。この二人と同じ時代に、世界に生きられることがどれほど心強いことか。

このパズルが一生完成しなくても、穴だらけでいびつな絵だったとしても、半端につながったピースの端っこが、誰かのたりない一部と繋がることがあるのかもしれない。この無様で不細工な未完成のパズルを愛することは難しかったけど、たりない自分を生きていることを前より少しだけ誇れるようになった。

山里さんと若林さんという、たりないひとりとたりないひとりが手を組んで生み出した「たりないふたり」は、ビジュアルイメージ通りの殴り合いの死闘でもあり、プロの芸人による最高の漫才だった。笑って、笑って、大泣きした。生きていてよかったと思える夜だった。

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