見出し画像

挨拶が苦手という話

昔からずっと悩んでいることがあって、非常識だと思われるし人間性を疑われそうで怖いから誰にも言えずにいたことがある。それは人に挨拶するのがとても苦手だと言うことだ。

子供の頃から「なぜ人に会ったら挨拶をしないといけないのか」という疑問に対して納得のいく答えを見つけることが出来ずにいた。そんな疑問が芽生える前から挨拶をするという事を徹底的に叩き込まれていれば出来る様になったのかもしれないけど、物心がついた頃には挨拶をすることに消極的になっていた。「挨拶は基本中の基本」「挨拶が出来ないのは人としておかしい」と聞けば聞くほど、それが苦手な自分は欠陥があると言われているようで、割と簡単なことのはずなのにどんどん出来なくなっている自分がいた。

どうしてそんなに苦手なのかな、と思い返した時に考えられる理由が2つある。
幼少期、祖父母が宿泊業を経営していた。幼い頃からそのホテルに出入りしていた私は、宿泊客が落ち着いてコーヒーを飲んでいるロビーで静かに大人しく過ごしていれば褒められた。また、ホテルマンと言うのはあまり声を張り上げて宿泊客に挨拶をする事はしない。どちらかというと微笑みを携えてゆったりと穏やかな口調でお客様を出迎えている姿を見てると会釈のような挨拶が一番良いのではないかと子供心に思い込んでしまった節がある。
もう一つは、お寺が経営する幼稚園に通っていたことだ。お寺の敷地内に幼稚園の園舎と園庭があり、葬儀や法要がある時は喪服を着た参列者が園庭のすぐ近くに溢れていた。葬儀の参列者と言うのはやはり悲しみを携えているもので、まだ人の生死をあまり理解していない幼稚園児にも時折見受けられる黒い服を着た人達が悲しい思いでここに集まっているということが何となく理解できていた。そういう日は園庭で遊ぶようなことも無かったと思うが、なんとなくその黒い服を着た人達を見かけても子供らしい大きな声で挨拶をするよりかは、見て見ぬふりをしてじっと園舎の中で様子を伺う事が歓迎されると分かっていたのだと思う。
なんとなく、この2つの経験で、大人しく黙っていることが良しとされるものだと学習してしまった気がする。

なので、小学校に上がった時に毎朝耳をつんざくような大きな声でおはようございます!と先生に挨拶する子供たちを見た時、本当にびっくりした。そして声が大きければ大きいほど元気でとてもよろしいと褒めてもらえてることも衝撃だった。7歳とは言えもう自分の中であるべきいい子の姿を確立していた私は今更それまでのスタンスを変える事ができず、持ち前の人見知りが輪をかけて内気にさせた。うつむいて聞こえるか聞こえないか位の小さな声で「…ぉはようございます…」と呟くのが精一杯だった。
内気な子供時代を過ごした(今もだけど)私だったが、大学に入った時に体育会系の規則に従うことになる。それは校内で先輩を見つけたらどんなに遠くに居ても挨拶をしなくてはならないという寮のルールだった。寮と、大学と、部活の練習場を往復するだけの毎日だったので常にいつどこで出くわすか分からない先輩の存在に気を遣いながらの生活だった。それでも友達と一緒にいて、単純なルールだと割り切ってしまえば次第に慣れることが出来たけど、それも在学中のみ脳を使わずに行えた一時的な習慣であって、卒業したらまた挨拶をすることが嫌になってしまった。

学生時代までは大人しい子だな、で済まされていたことも大人になるとそうもいかなくなる。何てったって挨拶は社会生活の基本。他者と自分を繋げる為のパスポート。相手のことを知っていようがいまいが、自分から挨拶ができる人は常識があると見なされるわけで、それが出来ないのは変な人なのだ。分かっていればいる程、社会人になってから職場に朝向かうのが憂鬱だった。朝礼前、廊下を通る出勤してくる社員一人一人に向かって「おはようございます!」を何十回と繰り返す同期が怖かった。やってることは大学生時代の私と変わらないのだが、冷静になって考えると、廊下ですれ違ったり顔を合わせるタイミングで挨拶するなら分かるけど、待ち構えてひたすら射撃するものなのか?挨拶って…?気持ちいい挨拶ってこう言うものをいうのか?色々疑問に思うものの、それでも挨拶ができる新人と出来ない新人を比べてしまえば、圧倒的に前者は好感が持たれるのである。
多分人からしたら全く何を言ってるのか分からないと思うのだけど、私は毎朝毎朝そんなことを疑問を感じて、恐怖にも感じて、挨拶ってどうしてしなくちゃいけないんだろうと言う問いの納得いく答えが見つけられないまま今の今まで来てしまったのである。
答えなんか出なくたって出来る様になれば一番良いのだけど、それも出来ないままなんとなく誤魔化し誤魔化し生きてきてしまった。仕事はやめたけど社会生活を送る上で他者と関わることは避けられず、未だにゴミ捨て場に向かってる時にご近所さんに唐突に挨拶されたり、児童館で見知らぬお母さんに挨拶されるだけで必要以上に驚いてどきまぎしてしまう。
子供番組を見ていても、あいさつをしよう!こんにちはって言うと自分も気持ちいいし相手も気持ちがいいよ!みんなハッピー!みたいな説明をされると、いやいや全然ハッピーになれないし、もうこの歳までこんな疑問を拗らせてるとどうしてこっちが他人をハッピーにさせなきゃならないのか、とすら思っていた。もう本当に人として失格、社会生活を送る価値なし、こんな人間が親になって子供を育ててるなんて信じられない話である。

でも、この長年の疑問に対してようやく腑に落ちる答えが見つかったのだった。
それがあちこちオードリーでの春日さんの言葉だった。
浮気報道があって以降、春日さんが若林さんに挨拶するようになったという話で、なぜそうなったのかと言うと「また同じことをやらかしてしまいそうだから」というものだった。
自分が相方を始め多くの人に迷惑をかけてしまったことの申し訳なさや、漠然と自分は大丈夫だろうと過信していた過去の自分への反省や、自らを変えなくてはならないと心を入れ替えたことなど、色んな要因が春日さんをそうさせたのだと思う。ただ、また同じことを繰り返してしまうかもしれない自分を抑制する為に挨拶をするようになったという動機が、言い方はあまりよくないけれどそんな自分本位な理由でも良かったのか、と驚いてしまった。もちろん、挨拶をすることで自分が他者に対してオープンであることを最初に示すことが仕事や人間関係をスムーズにさせるのだから、他者のことを思いやれるようになった行動なのだけど、それが引いては未来の自分を守ることに繋がると予期してのものなのだと言うのが目から鱗だったのである。
小学校に入学して以来私が感じていた挨拶は、先生や先輩や上司に対して行わなくてはならない強制力を感じさせるもので、相手への従順さを示すものであるが故に無意識に抵抗を覚えていたのかもしれない。特段顔も見たくないし声も聞きたくない人に対してなぜ声をかけなくてはならないのか、そして一種の社会的なルールとして行われてることなのにどうしてそこに気持ちよさや爽やかさを見出さなくてはならないのかと思っていたし、その意義を正しく理解できるようにならないと所謂心のこもった挨拶はできないのであって、形骸化された言葉だけの挨拶しか出来ないのならやることに何の意味があるのか分からなかったのである。
でも別にいいのだ、自分のためだって。大きな失敗をしてしまって、またこれから先も何かしでかしてしまうかもしれない自分を生きなくてはならなくて、そんな自分が日頃から少しでも相手の信頼を得るために、何かあった時に助けてもらう未来の保険のための「おはようございます」であっても良いのだな、という事に安心ができた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?