カウント10

勝負事を避けた人生を歩んできてしまった。

私は人と争うことが子供の頃から好きではなかった。妹が生まれるまで一人っ子のように育てられた私は、おもちゃもおやつも誰かと競わなくても手に入れられたし、1人で悠々と好きな時間を過ごして育っていた。
だから、小学校に上がって母の思うような良い成績が取れなかった時に、優秀なクラスメイトと比較され、「あんたはこれだけは絶対に誰にも負けないと言うものがないのか」と叱責されてひどく動揺した。その瞬間まで、誰かと競ったり、順位をつけられる世界を知らなかったのだ。みんなと仲良くしたいのに、どうして競わないといけないのだろう。勉強やスポーツでクラスメイトと競い合うことと、仲良くすることは別の話であり、それはそれ、これはこれなわけだが、幼い私には理解が追いつかなかった。
せめて、誰かに負けたくないとか、クラスで一番になりたいと言う気持ちが私の内側から湧き上がってくれば良かったのだけれど、何もない所に無理やり闘争心と言う炎を焚きつけようとする母が怖かった。母には到底逆らうことも反論することも出来なかったけど、その代わりに、私は「相手に勝ちたい」と言う気持ちをもって何かに挑む事を邪に思うようになった。その歪んだ反骨心を持つことが母に出来る唯一の復讐だったのだと思う。

勉強はそれなりに頑張ったけど、思うように成績は上がらず、その度に悔しくはないのかと叱られた。私は段々と競争社会を憎むようになった。勝ったとか負けたとか、誰のミスだとか、本気出せだとか、競技を通して熱くなる運動部の子たちのことも穿った目で見るようになってしまった。絵を描くことが好きだった私は、コンクールで入賞したことが何度かあった。ただ、それは賞が欲しくて描いたわけではないし、他の人より上手く描きたくて上達したわけではない。好きでやったことがたまたま評価されたのである。競わなくたって、誰かに認めてもらえる世界もあるのに、どうしてそんなに勝つことにこだわるのか。勝者は敗者を見下すし、敗者は悔しさの中で苦渋を舐めないといけない。そんな世界なんて通りたくない。私は極力、人と競わずに生きてこうと決めた。
私が志望した大学は特殊な資格を取得する学部だったので志望者も少なく、偏差値も高くなかったので、受験戦争の中でも誰かと競っている感覚は無かった。就活においても、友人知人と被らない、競合しなさそうな所を受けに行った。就職後も、成績を競うような職種では無かったため、私は結局、望んだ通りの、勝ち負けのない人生を歩めてきたわけである。

でも、それで本当に良かったのかな、と今になって思う。部活動でも、コンテストでも、どんな競技であっても、誰かと対峙して戦ったことがある人が、私には眩しく見える。竹原ピストルの「カウント10」を聴くと身につまされる。私には結局、勇気が無かっただけなんじゃないかって。負けたことがある人は、その辛さと苦さと痛みを知っている。私はそれを味わうのが怖くて逃げてきた。戦わなければ、負けなくて済んだのだ。
勝って誰かを見下し、蹴落としたくて勝負するわけではないと言うことを、私はつい最近になって理解したと思う。「本当の敵は自分自身」ってよく聞くけど、闘うことは自分と対峙することなんだな。それもこれも全て勝つためであり、だからこそ「人生勝ち負けなんてない」わけがないと思って挑むんだろうな。

私はこの先の人生の中で、何かしらの勝負に挑むことなんて無い気がするけど…でも、コンプレックスだとか、精算しきれていない過去の自分の愚かさだとか、忘れようと思えば忘れて生きていけることにちゃんと向き合わなければいけないと思ってる。私にとっての勝利が何であるかは、はっきりとは分からないけれど、でも自分と対峙することが私にとっての戦いなのだと決めた以上は、恐れずに、逃げずに、納得がいく答えが出るまではカウント10を数えずにいたいと思う。

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