自由を求め、ひとを愛する _吉田秋生氏「BANANA FISH」から受け取ったこと

男友達が以前、話してくれたことがある。「男子校1年のとき、クラスのみんなで回し読みした。衝撃的なラストに、授業中呆然とした。それ以来読んでいない」と。それが吉田秋生氏の漫画「BANANA FISH」だった。
私自身は学生時代に読んでいて、圧巻のラストに同じく涙した。著者の作品はその後も何となく追いかけていたものの、彼の言うように「BANANA FISH」はちょっと特別で、読み返すことはなかった。

それから15年が経った今年、体調を崩して2週間ほど仕事を休むことになった。読書するほどの体力もないので動画配信サイトを開くと、なんとアニメ化されていた。「何年ぶりだろう、ラストは再現されているのかな……」。気軽に見始めた。結果、3巡した。最初に原作を読んだときと同じように、ただ観てぼーっとしていた。

作品について少し説明すると、アニメの原作者は、是枝裕和監督の映画「海街diary」の原作者でもある吉田秋生氏。アニメ化は2018年で、「漫画家デビュー40周年記念」ということらしい。原作は1985年から1994年まで小学館の少女漫画誌に連載されており、ストーリーはというと、舞台はアメリカ、ニューヨーク。ベトナム戦争のワンシーンから始まり、危険な薬物の存在に気づいたギャングの青年が、マフィア、そして国家を相手にして戦う……という、暴力ありアクションありの、結構ハードな物語。
基本はそうなのだが、一応少女漫画なので、人物の関係も丁寧に描かれ、心和む場面も、ドラマも笑いもある。そして連載当時の、冷戦下のピリピリした空気も伝えてくれる、社会派の一面もある。加えて、展開が早くネームも多く……という、なかなかに要素てんこ盛りの作品なのだ。
まあ、こんな野暮な説明は、調べればすぐわかることなのでどうでもいい。今回は、15年前にはうまく言語化できなかったその衝撃について、自分なりに2つ書き出してみる。

1) 「自由になる」って誰にとっても簡単じゃない____何をしたいかを知り、表現することの難しさと尊さ
この物語には2人の主人公がいるのだが、そのうちの1人であるアッシュは、壮絶な運命を背負った17歳の青年。彼は子どもの頃から大人に搾取されて育っている。何度も殺されかけ、人をたくさん殺してもいる。タフでクール、ピンチのたびに戦略を練り死線を越えていく、そんな超人のような彼なのだが、同時に数えきれない心の傷を隠し、ときには孤独に苛まれている姿も描かれる。

そんな、現代の日本人からすれば現実離れした存在のアッシュだが、吉田氏の画力とネームのセンスがその世界にリアリティを与えている。吉田氏の絵は独特で、いわゆる少女漫画を模写したものではなく、美大生がデッサンから描き起こしていったような絵だ。表情や視線に実写映画を見ているようなリアリティがある。そして、ネーム(セリフ)には、人物それぞれの譲れない生き方、意志のようなものがきちんと感じられる。
アッシュにとっての譲れない生き方は「自由になる」ということだと思う。「生きたい」ではなく、「自由になりたい」。自由になれなければ、生きていても仕方がないのだ。
作中、アッシュは何度も「何にも縛られず自由になりたい」といったことを口にする。でもそれは、アッシュじゃなくても実はすごく難しいことだ。自分が自由になることで、誰かの自由を侵害するかもしれない。誰かからの支配だけでなく、ときに庇護を拒否することかもしれない。たくさんの相手と議論や交渉をすることかもしれない。主張や議論を続けるのはしんどい。諦めた方が楽なこともある。でも、「生きる」って、結局のところ、自分が「自由になるため」にはどうしたらいいのかを考え、見つけ、それを阻むものと戦い続けるということなんだよね、と思う。

「人は自分だけの星をつかむべきなのだ。たとえどんな凶星であっても」とは「銀河英雄伝説」のヤン・ウェンリーの言葉だが、まさにこの言葉が当てはまるアッシュの生き方。現実の世界でも、本当にその通りで、それは死ぬまで変わらない。

2) 誰かを愛するとは?____2人が男同士だからこそ見えたこと
自由を求めて戦い続けてきたアッシュだが、もう1人の主人公である英二もまた、彼なりの自由な生き方を模索していた。出自も環境も異なる2人だが、不思議と馬が合い、やがて深く信頼し合う仲になる(恋愛関係ではない)。

この2人の、自分を懸けて相手を思う、純愛とも呼べる関係にとにかく心揺さぶられる。でも、仮にこの2人が男女だったなら、もちろん素晴らしい物語であることに変わりはないけれど、もしかしたら「どちらが守る側、どちらが守られる側」とか「どちらが世話する側、どちらが世話される側」などのような見方が入ってしまったかもしれない、とも思う。少なくとも連載開始時の1985年は、多くの少女漫画で男女はそのように描かれたし、日本における男女へのバイアスは深かった。でもこの2人は男女じゃなかったことで、「人間が人間を」深く信じて愛するとはどういうことなのか、を正面から描くことができたのかもしれない。余談だけれど、当時の読者たちは、「支配される側ではない自分」と誰かとの愛ある関係を、そこに夢見ることができたのかもしれない・・・・・・とちょっと勝手に想像もした。

アッシュは英二に対して「自分が見返りなく助けてもらったのは初めてだった」と言っているが、そういう理屈を抜きにしても、お互いがお互いの繊細な部分を理解し、支え合おうと思えるような不思議な出会いだったのだろう。現実でもそうだが、誰かを好きになった理由を見つけるのは難しい。そしてそういう出会いは、ときに自分でも自覚しないほど大きなエネルギーをくれると、大人になった私はもう知っている。だからこそ、余計に2人の出会いの輝きが目にしみる。

「ぼくは何から君を守りたかったのだろう? ぼくは運命から君を守りたかった 君を連れ去り 押し流す運命から」「君は豹じゃない 運命は変えることができるんだ」何度読んでも涙が出る、最終回でアッシュが読んだ英二からの手紙。2人が二度と出会えなくても、2人にとっての愛情は何ひとつ損なわれない、「ほかに何か必要なものがあるの?」なのだと思う。


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