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コンテンポラリーアートの不気味さ

たなかともこさんの記事がとても面白かったので、自分の勉強がてらコンテンポラリーアートについてまとめてみました。たぶんアンサーにはなってない(笑)

ちゃんとしたアンサーと解説を読みたい方は涼雨零音さんのこちらの記事を読むといいよ。

ということで、脱線しまくりのお話の始まりー!

1章 コンテンポラリーアートとは

そもそも、コンテンポラリー(contemporary)とは「現代の」、「今日的な」という意味です。
コンテンポラリーアートを日本語訳すると「現代美術」となり、日本では「現代アート」と呼ばれることが多いようです。

しかし、「現代」という特定の時代を限定しない言葉遣いから、定義するのは大変難しく、だいたい20世紀初頭あたりから生まれた作品を指すようです。

時代がもつ共通の性質=同時代性を強く打ち出し、それまでの概念にとらわれない前衛的かつ新しい芸術表現を総評したものが「コンテンポラリーアート」と呼ばれます。そこにあるのは、「いま、自分が生きている世の中の複雑さを表すもの」。単に同時代を生きるのではなく、作品やモノが認知され、その価値が言語化されるのが必要となってくると考えられます。

コンテンポラリーアート=現代美術に近い言葉として「モダンアート」というものがあります。しかし、そこには明確な違いがあります。

モダンアート(Modern Art)とは「近代美術」を指す言葉です。「近代」は「現代」のひと世代前、つまりモダンアートはコンテンポラリーアートよりもひと世代前の作品たちを表すということですね。具体的にいうと、1860~1970年代のアートたちが相当します。

2章 コンテンポラリーアートの歴史的背景

2-1. そもそも近代美術とは?

近代美術(モダンアート)は、実験精神を重視し、過去の伝統的な美術様式から脱しようとした思想や様式を抱いた芸術運動のことです。美術史では、写実的な初期印象派から脱しようとした後期印象派や新印象派、またリアリズムから脱しようとした象徴主義が近代美術の源流とされています。

具体的なアーティストに即していうと、クロード・モネらの印象派、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌ、ジョルジュ・スーラといった後期印象派の画家たちです。これらの芸術運動が美術分野の「近代」の発展における主要な存在だったと言えます。

近代美術とは個人主義的価値観のもと生まれた作品を指す美術史的区分です。一般的に近代美術として認知されているのは、おおよそ1860年代から1970年代までに制作された作品となっています。

2-2. コンテンポラリーアートの始まり

コンテンポラリーアートの歴史を語る上で欠かせない人物がマルセル・デュシャンです。マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887年7月28日 - 1968年10月2日)は、フランス生まれの美術家として有名ですね。

これまでのアートは、作品の美しさや品質の高さなどが評価されていました。そんな風潮の中、マルセル・デュシャンは、「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表しました。

そして、既製品の男性便器に制作年度と匿名の「R.Mutt」のサインを書いただけの作品「泉」を1917年に「ニューヨーク・アンデパンダン展」に出品したのです。

この作品は「芸術の概念や制度自体を問い直す作品として、現代アートの出発点」であり、従来の伝統的な彫刻形式をはみ出した造形作品としての"オブジェ"の認識は本作から始まったとされています。

当然、この作品は物議を醸し、「これはアートなのか」「そもそもアートとは何か」という論争が広く繰り広げられました。しかし、これが彼の狙いだったのです。

マルセル・デュシャンはこの作品を通して、これまでの視覚的なアートを否定し、観念的なアートを提唱しました。ただし、この作品には注意点があります。近年の研究では、代表作の『泉』を含む多くのデュシャン作品は、ドイツの前衛でダダイストの芸術家・詩人の女性、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン(Elsa von Freytag-Loringhoven)が制作したとされています。

3章 そもそも「美」とはなんなのか

この問いに答えるには少し時間を巻き戻す必要があります。そこで出てくるのはドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724 - 1804)。

『判断力批判』( Kritik der Urteilskraft)はカントが1790年に刊行した哲学書であり、美に関する考察がなされています。この著書は上級理性能力のひとつである判断力の統制的使用の批判を主題としています。

この著書では、美学的判断力の批判という章において、美学的判断力の分析論、そして美の分析論がおこなわれています。

本書は第一部、美的判断力の批判と第二部、目的論的判断力の批判からなり、判断力に理性と感性を調和的に媒介する能力を認め、これが実践理性の象徴としての道徳的理想、神へ人間を向かわせる機縁となることを説いています。

本書の主要概念である「趣味判断」(または「美的判断」)とは、人間が物事の美醜を判断する際、その判断の基準は個人の趣味(ドイツ語: Geschmack ; 英語: taste)であるということを意味しています。

この趣味判断で美醜を判断する際には、快苦を基準として判断されるという事であり、ある物を美しいものと知覚したならばそれは自身にとって快楽をもたらす事となるものであり趣味であるという立場となるのです。逆に醜いと知覚したものならば、それは自身に苦痛をもたらす事となるものになります。美しいということは、特定の目的にふさわしい形や機能をもつということとは関係ないのです。便利だが不恰好(ぶかっこう)なものもある。

つまり美しいものは、何かの目的のために存在しているわけではない。にもかかわらず、ある対象に関して、私たちはそのあり方に、「ふさわしい」という心地よい印象をもつことがあります。

それこそ美しいということなのです。目的はないのに、合目的性(ある事物が一定の目的にかなった仕方で存在していること。)の形式だけがあるのです。目的の発生を考える上で、美に関する直感的判断力にカントがまず着眼した理由はここにあります。

そして、美はいわば道徳的なるものの象徴です。道徳的本質としての人間の現存は、みずからに最高の目的そのものをもつとされています。そして、そこに神の概念を見出したのは理性の道徳的原理であり、神の現存の内的な道徳的目的規定は、最高原因性を思惟すべきことを指示して自然認識を補足するものなのです。

なにを言っているのか、さっぱりかもしれません。なにしろこの著書『判断力批判』は、『純粋理性批判』『実践理性批判』に次ぐ第三批判と呼ばれる著書だからです。

ちなみに『純粋理性批判』では、人間は何を知ることができるか、『実践理性批判』では、人間は何をすべきかを考察しています。

もう少しブレイクダウンしてカントの言いたいことをまとめましょう。カントは「美」とは主観的なものであると主張します。

例えば、バラを見て「美しい」と感じる時、バラそのものが客観的に美しいのではなく、バラを見ている人の主観が「美しい」と判断しています。
つまり、「美」の正体は客体(=バラ)の側ではなく、主体(=バラを見ている人)の側にあるということです。

一方で、「美」には普遍的な側面もあります。例えば、バラを見て「美しい」と感じた時、別の場所にいた人も同じようにバラを「美しい」と感じている場合があります。

カントによれば、個々の主観が感じている「美」は普遍的なものとして他者と共有することができるのです。

このように「美」とは、普遍的な概念として存在すると考えられます。さて、そろそろ現代美術であるコンテンポラリーアートに戻りましょうか。

4章 コンテンポラリーアートの主要なテーマと特徴

4-1. 多様性と実験性

コンテンポラリーアートと一口に言っても、テーマは作家によってさまざまです。

ポストコロニアリズム、戦争、先住民、移民、神話・伝承、ネーション、エコロジー、ジェンダー、ケア、資本主義、人工知能、仮想現実など、多くのテーマが見られ、その在り様や価値基準もますます多様化・細分化していると言えるでしょう。

また、必ずしも伝わることや使用されることを目的にしていないのも特徴です。むしろ“言語化が難しい内容”を、言葉に代わって表現したり、現代社会の状況や矛盾点、盲点を炙り出したり、今まで見向きもされていなかったミクロな世界を紹介してくれます。

あるいは、生き方や考え方を新たに紹介してくれたり、代弁してくれる。つまり、住み慣れている環境、考えなくてもいい受身な環境から、1歩外の世界に導いてくれるのが、コンテンポラリーアートなのです。

同時にそれを楽しむためには、ある程度の「能動性」が求められます。それには私たちが受けてきた美術教育を考えてみましょう。それは「リアリズム」教育というものでした。

美術におけるリアリズム教育とは、「平面上に写真のように何かを再現する」ことが優れているという美術観です。それは、絵画でリアルを再現することに他なりません。しかし、コンテンポラリーアートは違います。

絵の具以外のものを多用し、キャンバスという二次元空間を飛び出し、立体的に、そして時間までも活用した表現方法をコンテンポラリーアートでは活用されます。

例えば、コンセプチュアルアート(Conceptual Art)では、アイデアや概念を重視し、作品の形態や物質性よりもメッセージや概念の伝達を追求するアート形式です。コンセプチュアルアートはしばしば言葉や文書、写真、映像などを使用して表現され、絵画という枠を飛び出しています。また、身体もアートになります。

パフォーマンスアート(Performance Art)では、身体的なパフォーマンスや行為を通じてアートを表現します。パフォーマンスアートは時に観客とのインタラクションや社会的な問題への関与を重視します。アーティスト自身が身体的なパフォーマンスや行為を通じてアートを表現しており、時間と空間の中で展開されるパフォーマンスは、観客との関係や社会的な問題を探求する場としても活用されることになります。このようにコンテンポラリーアートは、多様性と実験性に溢れているのです。

5章 政治的な意味合い

アートは「美」を享受するものであり、「政治」的な振る舞いからは遠くあるべきだとの意見を持つ人は多くいます。

しかし、アートと政治を完全に分離することは困難です。

そもそも、何を「美」とするかの基準は優れて政治的な問題です。例えばナチズムが世間に蔓延っていたとき、ナチズムを批判するような芸術活動は御法度でした。

ジョージ・L・モッセ著『大衆の国民化』では、ナチズムが大衆操作ではなく大衆の合意形成運動のなかで生まれたとして、ファシズムと芸術活動を分析しています。

ジョージ・L・モッセ

この本の中では、ナチズムを大衆の政治参加に基づく国民主義(ナショナリズム)の極致と捉えて、フランス革命からナチズムに至るまでのシンボルや政治的祭祀の発展をたどり、ドイツにおける国民主義の歴史を読み解いていきます。

聖火や整列行進、国民的記念碑や建築などが大衆の政治参加にどのような役割を果たしたか、また体操家や合唱団や教会、さらには労働者組織までがナチズムの政治的祭祀に統合されていく様子を赤裸々に描き出した一冊です。

また、モッセの他の著作『ナショナリズムとセクシュアリティ─市民道徳とナチズム』では、18世紀の宗教復興とフランス革命を経て、西洋では「礼にかなった」作法を重んじる市民的価値観が浸透していったところから分析が始まります。

リスペクタブルか否か?その問いかけはセクシュアリティをも正常/異常に区分し、国民主義と結びついて社会の管理・統制を強化した。逸脱行為と見なされた同性愛や売春は社会秩序を乱すものとされ、自制する「男らしさ」と、性欲を排した男同士の友情が市民道徳の基盤となっていくのを明らかにしました。宗教、医学、芸術、性別分業、人種主義などの諸要素が絡まり合って作用し、市民的価値観と国民主義が手を取り合ってナチズムへ至る道が鮮やかに描き出されています。

このように芸術と政治は不可分ではなく、コンテンポラリーアートにおいても現代政治と現代社会への問いかけがなされています。

6章 コンテンポラリーアートの不気味さ

いったいなぜコンテンポラリーアートには「分からなさ」という不気味さがつきまとうのでしょうか?

それは見る人に問いを立てさせるためだと思います。何かの答えや気持ちよさを与える作品もありますが、それだけではなく、いったい何を意味しているのか、何がここで問われているのかといった問いを考えさせるのがコンテンポラリーアートの特徴です。ここでも大切なのは受動性ではなく、能動性です。

答えを出すのではなく、問いを引き出して考えさせるから難しい。日常生活とは別の視点から何かを問うことができるのが、コンテンポラリーアートです。

「なぜこれをモチーフに?」「なぜここにある?」「なぜいまコレなのか?」このような問いをコンテンポラリーアートは考えさせます。

そして、「わからない」にも種類があります。
一つは、たんに情報量が多かったり、説明されることが複雑すぎるせいで、「わかる」までが大変なこと。

もう一つは、普段の自分の言葉や考え方から逸脱してしまっているせいで、うまく受け止められないことです。

ひとたびわかろうとすると、これまでの自分という人間性や、人生で信じてきたことが変わってしまい、何かが終わってしまうような危機感が生じるせいでしょう。そんな要素がコンテンポラリーアートには潜んでいるのです。

6-1. コンテンポラリーアートと身体性

わたしたちが当たり前のように「自分」の一部として認識している「身体」。ここには、そんな“個”としての、集団としての、そして国としての、世界としての、時間と空間が刻まれています。もちろん、ジェンダーやセクシュアリティもそうです。

伝統美術は人間の肉体を美の規範としたのに対して、現代美術においては人間の身体の背後にある関係性、あるいは身体に象徴される事項を題材として、さまざまな尺度から解釈し表現されています。

それだけ身体というテーマは、私たちにとって身近であると同時に根深く、私たち自身である人間を探究する上での可能性を内蔵したものであることが分かります。

伝統的な美術表現においては、再現性の高さで身体が表現されてきましたが、そういった観点とはまた違った意味でのリアルな身体が、現代においてもみることができるのです。

6-2. 身体という「場」

身体というのは常に、個人的、政治的、経済的な自律性をめぐる争いの場となってきました。ここで導入したい概念は、「パフォーマティヴ(Performative)」です。パフォーマティヴとは、J・L・オースティンという言語学者が『言語と行為』で出した概念で、日本では「行為逐行的」と翻訳されている。

J・L・オースティン

言語がもつ役割は、ものごとの状態や事実を記述するだけではありません。その言語を発したことによって、発話者自身がある行為を行っていることがあるのです。

さらにもう一歩踏み込んで「パフォーマティビティ(Performativity)」(行為遂行性)という言葉を使用してみましょう。パフォーマティヴィティは言語・記号の生成、創造という観点から出てきた考え方です。パフォーマティヴィティの視点を導入することは、コミュニケーションにおける意味の生成、意味の生産へと目を向けることになります。

「言語的身振り」、つまり言語を身体との関係性から捉え直そうということです。そこでは知覚と言語の関わりが問題となります。

一方、言語を身体の表現としてみると「場」が問われる。「場」とは、言語使用の各々の場面のことである。

私たちにとっては、それは日本語を話す「私の身体」ということになる。日々話し、聞く、日常の言語行為の場。日本語を操る私の身体、それは日本的身体と呼べるような場です。

私はいつから日本語を話すようになったのか。気がついた時には、私はすでに日本語を話していた。そしていつのまにか日本的な慣習を身に付け、日本人らしい振る舞いをしていた。すなわち日本人になっていたのです。

日本人になったのは、日本語を話すからでしょうか。日本語の特徴として主語がないことが指摘されますね。その結果日本語はあいまいになり、思考方法もあいまいさを含んだものとなります。言語がものの見方を決めるという立場からはそう結論づけられるのです。

6-3. パフォーマンスが刻み込まれる身体

そして、パフォーマティヴィティとは、何か現実があって、それを説明するという関係性を逆転させることを言います。つまり、説明するという行為が、現実を構成すると捉えます。ジェンダーのパフォーマティヴィティは、日々のジェンダー化された実践によって、ジェンダーが構築されてしまうことを指します。このようや考え方をして有名になったのがジュディス・バトラーであり、『ジェンダー・トラブル』という書物です。

ジュディス・バトラー

例えば、女の子にピンクの服を買い、女の子はこうあるべきだと話し方やふるまいを教えるなどなどによって、実際に女の子に仕立て上げられるということです。この言語によって刻み込まれた痕跡が身体を構築します。それも何度も何度も反復されることによってそれは強化されるのです。

しかし、コンテンポラリーアートではこのパフォーマティビティによって作り上げられた身体性にNOを突きつけることがよくあります。

ジェンダーだけではありません。国籍、年齢、社会的立場など私たちが「自然」なことと思っていることにもNOを突きつけます。そのNOを目の前にしたとき私たちはこれまでの意味や仕組みについて考えさせられ、これまで自明の理であった身体性に疑念の目をむけることになるのです。

7章 まとめ

哲学者ネルソン・グッドマンは『世界制作の方法』の中で、「artとは何か」という問いはもはや成り立たない、正しい問い方は「いつartか」だ、という有名な言葉を残しています。

ネルソン・グッドマン

「いつartなのか」、それは身体に備わるリズムとテンポが芸術作品とアンダンテ(歩くような)のスピードと調和したときでしょう。スピードだけではなく、リズムの強弱も関係してくるでしょう。これらが不一致なときに目にした作品は、不気味で意味がわからないものとなり、不協和音を奏でるのです。

しかし、ひとたびスピード、リズム、テンポが調和したときに作品はartとして目の前に現れ、意味を持つようになります。

コンテンポラリーアートはただ鑑賞するだけでは、意味不明です。しかし、鑑賞という近代的受動性から抜け出したときコンテンポラリーアートは生き生きとした「問いを投げかける」芸術として、私たちの目の前に現れることでしょう。

この論考においてはデュシャン以外のコンテンポラリーアートを取り上げられなかったのは残念である。また、バウムガルテンの『美学』などもっと「美」に関しても深く掘り下げられなかった。これらについては、また別の機会に取り上げることにしたい。

最後にわたしがサンフランシスコMoMAでみた言葉を。「What you see is What you see.」この文章が意味するところが一部でも理解できれば、この論考は成功だったと言えるかもしれない。(了)

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