見出し画像

戻ってくるの。一緒に。ーー秋の月、風の夜(60)

四郎は真顔で止めにかかる。「いや高橋な、俺らポケットに手、入れれやへんのやて」
「どうして」
「武術やる人間は、稽古のはじめに、そう申し渡されるもんで。応戦が遅れるやろ」四郎は真面目に説明する。

「じゃまくさい”べきねば”だな……いや、ごめんごめん。いいつけ守らないと鉄拳足蹴だからな、お前んちは」

裾をもぞもぞと出して、四郎は所在なげに鏡を見た。「だらしないてって、背中蹴飛ばされそうや……いややん……」
「泣きそうな声、出すなよ……つらいな。着くずしは、僕らと一緒にいるときだけでいいから」

「奈々瀬、それ、ぞわぞわする」急にそんなことを言って、四郎は涙目で奈々瀬を振り返る。

「あ。ごめん、神経にさわる?」奈々瀬が舌を出した。
「何かしてくれてるの?」高橋が奈々瀬を見る。「言葉の誘導なしで直接四郎をいじれるの?」

「脊髄反射がひどいんで、体細胞記憶から消してます。あの、たぶんなぞってつないでの痕跡なんだと思うんですけど、私がイメージすると四郎の状況と同期が取れてるみたいなんです。
消してるのは、暴力を避けたい一心で、いろいろ挑戦しないようにしてる禁止とか抑制とか。身構え感とか殴られたり蹴られたりの記憶とか。四郎これ、小さいときから容赦ない締めつけが代々続いてるから、自分でメンテナンス無理でしょ」

「今さわられとるだけで、わー泣きしそうやもん……かっこ悪て、ごめんえか」
「四郎のせいじゃないから、謝らないで。四郎が自由になれたら、私、うれしいな」
四郎はかすかにうなずき、片手で顔を覆って壁に手をついた。

「もっとゆっくり息をして」と奈々瀬は言って、四郎に近づいて背中に触れようとした。四郎はとたんにビクっとした。
高橋がかわりに、「奈々ちゃん、今触らないほうが」と言ったが、奈々瀬は四郎の背中に触れた。

「四郎、大丈夫になろう?ひどいめにあうことが当たり前で、優しくされるのが気持ち悪いなんて状態、つづけちゃだめ」

(そうか)高橋は急に腑におちた。
触るほうも触られるほうも、本当はだめなのだ。男をさわるなんてまっぴらごめんです、とたまに言うのは、恐怖と反攻が反射で出そうで制御できないからだ。家代々虐待の被害者で加害者だから、四郎は虐待された子供と同じ状態なのだ。愛着障害の混乱型の解説が、よく四郎に当てはまるのは、そういうことだった。

四郎が人を助けるとき、ためらいなく人に触れるのは、苛烈な武術稽古で訓練をしているからだ。

ぞっとするような地の果てから、戻ってこなければならない。高橋は暗い気持ちになった。

むごいヒーローズジャーニーだ。


次の段:抱きしめて、それでーー秋の月、風の夜(61)へ

前の段:うわっ、広がる驚愕と怒号。ーー秋の月、風の夜(59)へ



マガジン:小説「秋の月、風の夜」
もくろみ・目次・登場人物紹介


「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!