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あ……アメとムチ……!?【物語・先の一打(せんのひとうち)】32

「きのうのつづき、一行でいいから書いて。三分でいいから、着替える前に先に書いて」

戸口につったったまま涙でぐちゃぐちゃになっている四郎の現状にはおかまいなく、奈々瀬は四郎の両手をきゅっと握って言った。
包帯をしているほうの片手は、握力が三割減という感じで四郎に伝わった。

「えっ……」

どうしたの、とか。何かあったの、とか。
今まで奈々瀬から出てきたのはそういうコトバだった。
四郎は言われた言葉にちょっとびっくりして、「今、やらなあかん?」とたずねた。

「一行でもいいの。ハートのコーヒーがごほうび」殴られたケガは黄色と紫色になっている、と奈々瀬がさっき言ったとおり、顔のマスクで覆いきれていないところがまだらに内出血を広げていた。
「私に、押しかけアシスタントの仕事をさせて」

「あっ……」四郎はびっくりした声を出した。

自分が自分の書き物を書くかどうか。

それを四郎は独立して考えていた。自己肯定感のなさから放り出してしまいそうなそれを。

だがたった今。
自分が自分の書き物を書くかどうか。という観点に、急に「奈々瀬が押しかけアシスタントの仕事を果たすかどうか」という思ってもみなかった光が当たってびっくりしたのだ。

それはまるで、学校の体育館の壇上で急に壁際の地面のボーダーライトが一斉についたような、「それやる!?」という驚きだった。


ーーおはね。かわええな。まっすぐや

「奥の人」が嬉しそうに唸った。


四郎は答えた。「一行でええなら、今書く」

何を書くか、どうかくか、どのように書くかは全く知らない! けれど仕合と同じ、稽古とおなじ。仕込まれたとおりに体は動く……無意識すぎてプロットも起承転結もわからない。

「うわーーっ」急に四郎は自分の中で点と点がつながったことに、思わず声を上げた。寒い寒い道場で場面を一見してバッと本を閉じ、正座の罰を耐えるよすがに、常日頃、楷由社(かいゆうしゃ)歴史文庫はこっそり学校へ持っていくほど読み込んで暗記していたのだ。

あれらが、稽古とおなじ線条体を形成している……

楷由社(かいゆうしゃ)歴史文庫が、江戸川乱歩が、松本清張が、池波正太郎が、松谷みよ子が、コナン・ドイルが、アガサ・クリスティが、ヒュー・ロフティングが、明智小五郎が、徳川家康が、秋山親子が、モモちゃんのおかあさんと森のおばあさんが、シャーロック・ホームズが、ミス・マープルが、ドリトル先生と動物たちが、自分に稽古をつけてくれていた……
本の中の大人たちはうそをつかない。過ちを認めることができる。至らないことを至らないと言い、子供に隠さない。理屈が通っている。自分に暴力をふるわない。正義と誠実を知っている。その大人たちが。自分に稽古を。


外着のままで、「PC貸して」と高橋にひとこと言うなり、四郎は高橋の部屋に飛び込んだ。昨日のファイルを立ち上げた。2600字あまりのその続き。つつつーーーっとカーソルを最後の五行に行ったり来たりさせて、四郎は空中からつかみ出すように続きを書き始めた。

「ほんとにすぐ書けるの……」

奈々瀬がびっくりしたようにはるか背後でつぶやき、高橋は黙ってうなずいて四郎の背中をみていた。
はるか後方のことは、四郎にはもはや無関係だった。Wordでは一年前の、はじめてあった高校生二人の話が展開していたから。

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どこがどう、とんでもないか。
誰にもさされなかったであろう図星を、いきなり、名前も知らない相手にさされたのだ。
通常は、何かの反応をする。呼吸を止めたり、乱したり、反射で身体をかたくしたり。
さらに、いろいろな考えがわきあがり、注意をそっちに持っていかれる。
それらすべてが、ないのだ。そぶりさえ全くなし。
ただふっと、形のよい口元をゆるめ、呼吸する程度の、衝撃の逃がし方。それで終わらせる。

これが、一日四-五時間、十数年かけてつちかった身体性の、ほんの一面にすぎないことは、余人にはわからなくても、奈々瀬にはとてもよくわかるのだ。
奈々瀬は、どきどきする嬉しい気もちをふくらませて味わっていた。
奈々瀬の身体情報読みを、この高校生は、ほぼ同じペースで追いかけてきて、理解していく。奈々瀬が何を材料に、どんな判断をしているのかを、独特の身体能力の高さと人体に関する知識の厚さで、着実に後追いしてくる。

ふたりとも、理解されていることを理解することに、この短い時間、夢中になった。

ふたたびそれを振り払うように、高校生は奈々瀬を、駅のほうへとうながした。
「駅の近くにもどろう。どっかコーヒー屋さんにでも入ろう。とにかく寒すぎる」
つられて歩く奈々瀬の動きには、もう寸分のためらいも含まれていない。
それどころか、奈々瀬はチェーン店のカフェを「コーヒー屋さん」と表現する朴訥さとおかしみに、好もしさを感じていた。この人は普通より少しお人よしなレベルの言語表現を楽しむところまで、どれほどの道のりから、ちきちきと間合いを詰めるように帰ってきつづけたのだろうか。

さきほど軽く駅のほうへ促すとき、彼は奈々瀬の左肩甲骨の二十センチ手前で、てのひらをとめてふわりと空気で押す、ということを、意図してやってのけていた。初対面の異性に、さわらないように。
反対に、断るかもしれない可能性をすべて無視するように黙って、コートを着せた。寒さでさらに動きが鈍ったら、このあと何があっても、とても不利になることを、よく知っているのだ。

明確な目的があって、断固としてやりきる部分と、人との距離をやんわりと保つ工夫の数々と、朴訥なおもしろみを含む言い回しとが、ないまぜになっている。そんな人間のありかたを、奈々瀬は感動して味わっていた。

助かった。助かったんだ……。奈々瀬は歩きながら、ぼうっと、そんなことを思った。

それでもなお、奈々瀬はこの助け手に、手放しでずるずる寄りかかることはやめよう、と思った。
歩きながら彼女は、そっと言った。
息が上がっていて、その質問は、抑えても、ひどく震えた。
「名前とか、どうして逃げてるかとか、教えても、いいですか」

それは、普通の精神力では出てこない質問だった。

私の名前をきくと、あなたに厄介な状況をシェアすることになりますが、それをしてもいいですか。追っ手からのとばっちりや、警察とのかかわりは、あなたにとって、あとあと途方もない迷惑には、ならないですか。そういう意味の質問だった。

「うん。ええよ。……ええとね、先に名前教えると、俺は、嶺生(ねおい)四郎。名字が、むずかしい。みねに、生活の生を書いて、ねおい。岐阜の高校の、三年生」
「ねおいさん」
「うん。……ああ、呼ぶには、下の名前のほうで呼ぶと、ちょっとでも、いいかな。名字はねぇ、珍しすぎて、……あんたを追っかけとる人が、すぐ見つける手がかりになる」

「……四郎さん」

「うん」四郎は、見ず知らずの女の子に呼ばれた自分の名前を、なんとなく嬉しそうに、でもにこりともせずに、耳から、心へ、しずかに聞いた。なにかがこみあげてきそうになって、四郎はそれを、わずかに息を吐き出すことで、身体の外へと逃がした。

「名前、おしえてくれるか」

「奈々瀬です。額田奈々瀬、 “ぬかたのおおきみ” のぬかた」言ってから奈々瀬は、自分の名前もまけずおとらず珍しいことに、はじめて気づいた。「私も名前、珍しいですよね」
「珍しいね」四郎はほんとうにかすかに、ほとんどわからないくらいの、微笑を浮かべた。
「俺が奈々瀬の名前呼ばずに何か言っても、自分に向いた言葉かどうか、わかるな」
「わかります」

四郎はそれだけ話すと、もうだまってすたすたと歩いた。それほど寒かった。心の中で、なにかをじんわり反芻(はんすう)しているのが、その、なんともいえないあたたかさを味わっている表情から、わかった。

駅前のカフェは、仕事帰りの大人でいっぱいだった。
入ってすぐの出やすそうな席に、四郎は瞬時に荷物を無造作におく。そのまま歩いたカウンターで「何飲む?」と四郎にきかれて、奈々瀬は一瞬、自分の飲み物を告げていいのか、ごちそうになっていいのか、とまどった。
四郎のまなざしは、声には乗せずに、(めだたずに)と、奈々瀬に語っていた。
奈々瀬は「ミルクティー」と言い、四郎はホットコーヒーとミルクティーを注文した。

四郎が二人分の飲み物の支払いをし、トレイを持つのを、まじまじと見て、奈々瀬は、はっとわれにかえり、入り口ちかくの席に戻った。いまごろ、身体がひえきっていることと、ドアに挟んだ腕と背中が、やみくもに痛いことに、気づいた。
「あの、飲み物代を」奈々瀬は手袋をとりながら、小さな声で言ったが、四郎は「あとで」と、やわらかく、さえぎった。

「まだここの駅前におってもいいのかどうかだけ、先にききたい」
奈々瀬は唖然とした。声の出し方というのがあるのだと、はじめて知って、唖然としたのだ。
客でいっぱいのカフェで、話を隣近所の客にもれきかれない声の出し方。生まれてはじめて、そんな芸当をみせられた。下丹田から身体の外へとおる息に、まっすぐ、控えめな声をのせる。

それで奈々瀬は、自分の息が、のどもと浅くあがっていたことに、気づかされた。だから、ちょっと逃げただけで、もたないのだ。
奈々瀬はつとめて、せめて胃のあたりまで、息を吸いこんでみた。ほぼ、無駄だった。
「列車の中で、離れた席の見張りに気づいて、途中でおりました。相手は、二人殺しています。たぶん、二-三人の仲間です」
「そうか」四郎は、目を伏せた。「こわかったやろ」そして、続けた。「この駅でおりたこと、相手はわかったかな」
「たぶん」そして奈々瀬はやっと、相手の機動力が高ければ、連絡をとりながらホームから駅周辺へと輪をひろげて自分を探せる、と思い至った。

「ああ……。この駅は、だめですね」

「うん。少し、あったまったら、動こう」
四郎は必要最低限のことだけしか、確認しなかった。

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四郎はおそるおそる後ろを振り向いた。一行でも三分でもない。十分弱を……むさぼるように使ってしまった……

二人は食卓にいた。四郎は忸怩たる気分で食卓に戻った。

「書けた?」

「書けた」

「嬉しそうじゃないな」高橋に言われて、「やって三分てっとったのに待たせて」と四郎は答えた。
「書けたんだから喜ぼう。さあハートのコーヒーだ」

三人のカップのハートは少しずつ形が違っていて、しかも電子レンジで60度に温めなおして、でも泡立てミルクはなめらかだった。

「書けたときのごほうび、ってより、仕事の打ち上げみたいだね、三人で飲むと」高橋が嬉しそうに言った。


四郎にとって、「自分のしたことが、他人とつながっている」ことを深く知ったのは、たぶん生まれて初めてだった。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!