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どなられた。恩に着るって言ったのに。--成長小説・秋の月、風の夜(1)

#1 よろしくない状態

スマホの着信……

(ああー)
おっくうな、いやーな感じ。
指が、ポケットに触れる。グレーの背広の袖がすれた。

太い眉がひそまり、いつも穏やかなまなざしが嫌そうにくもる。
億劫(おっくう)さをグイッと越え、着信に出た。

「はい高橋です」声の詰まりがひどい。伸びがない。
――有馬だが、

高橋はとっさに、スマホを耳から離して身がまえた。

――雅峰(がほう)っ!どういう了見だーっ!!

先日の「恩にきる」発言がふっとぶ、鼓膜が破れるような一喝をあびた。続いてあれやこれや。

聞いて、きいて、きいて、謝って説明して。きいて、きいて、また聞いて、ひくい静かな声でわびて。
意志の強いあごが、ぎゅっと歯をかみしめる。分厚いてのひらが汗ばむ。スマホを握る指に思わず力をこめる。

さいごに、
「僕が全面的に悪いんです。それで構いません、動かしようがありませんから。決定事項はくつがえりません、申し訳ありません」
目をつむって最後通牒をかました。……通話を切った。……机に両手をついて、はぁぁぁあっーー  ……と深く深く、息をついた。

ぐしゃっと両手で頭をかかえ、深緑とライトグレーのストライプのネクタイを乱暴にゆるめる。

(四郎……。……くっそぉ、僕の方が身をもがれるようだよ)

果てしなくさびしい。

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その日よりも半月ほど前のこと。まだ、そんな事件が起こるなんて、誰も思っていなかった幸せな日……楷由社(かいゆうしゃ)月刊読物二課。ひくめの天井、くすみつつあるホワイトグレーの壁、灰色スチールのキャビネの列。

(また、ぼけっとしている)
と、高橋は自分のようすをぼんやり観察していた。

四-五日前から気になっていた。そろそろ、ごまかさずに記録しておかないと。
・タスク数おち(約40%↓)
・着手後二分ぐらいで手が止まる
・息が少ない(回数、深さ)→8カウント呼吸!スクワット/散歩

行動記録に、高橋は万年筆で書いた。万年筆をグレーの背広の胸ポケットにしまった。

高校時代、画業のトレーニングや受験勉強の合間に、こういうぼけっとした感じを放っておいてドツボにはまったことがある。
みるみるうちにメンタルでおちこみを見せ、いっこうに浮上しなかった。
絵の師匠の神林現(かんばやし げん)に「行動記録」をつけるよう教育されていたおかげで、「七十二時間ぐったり徹底して休むという予定を織り込めば、再浮上する」という、イカれた法則性はわかっている。

しかし今の高橋は、たっぷり七十二時間、廃人のように……という贅沢(ぜいたく)を、自分自身にゆるしてはいない。
なので、小手先のメンタル上げの打ち手に頼る。

ペンを赤に持ち替えて、有馬先生の小説につけた挿画リストのチェックに戻った。が、すぐにぼけっとする。指で机をトントントントン……のリズムが、体に入らない。

「どう高橋さん。前よりまし?」
コーヒーの味を事務の真鍋満代にきかれて、高橋は進まないリストをあきらめた。
「うん、おいしいよ。ハートを感じる」

「うっそほんと? 口うまいからさー」ぽっちゃりという表現が控えめすぎる満代が、赤いルージュの唇をニカっとひらいて笑った。

月刊読物二課のコーヒーとお茶は、昨年、ほんとうに……まずかった。ベストセラー作家、有馬青峰(ありま せいほう)のさし絵を担当する画家でありながら、高橋は盆暮れしか楷由社(かいゆうしゃ)に顔をださなかったものだ。

「中澤経営事務の役員業務と、顧問先のコンサルティングと、画業と、京都のカフェバーが忙しくて」……というのを、高橋は表向きの理由にしていた。名古屋から岐阜なんて、車で三十分ていどなのに。

実は月刊二課に顔を出しても、まずいコーヒーしか飲めないのが最大の理由だった。

幸いそれは、なんとかなった。

いや……
なんとか「した」。

月刊二課に生涯ひとりの親友を得た高橋が、来るたび失望するのがいやさに「なんとかした」のだ。

教え込んだ。根気よく教え込んだ。六才ほど年上の真鍋満代に、接遇のイロハから、煎茶とコーヒーだけは人並みに入れることまでを教え込んだ。豆の選び方からはじまって、茶やコーヒーを実際に淹れてみせ、やらせてみて、くりかえしほめ、またやってみせた。
飲食のバイトには絶対いないタイプの満代は、気が狂うほど長い時間を費やし、なんとかなった。

心の奥底に発狂恐怖を隠している高橋照美が、「気が狂う」と感じること自体、すこぶる危険だ。
高橋は思ったものだ、(これで僕は、どんなバイトの教育研修だっていける)と。(だが一人きりにこんなに時間がかかってんじゃ、マネジメント破綻だ)と。

業務用のドリッパーには、すでに過剰なほどたっぷりコーヒーが入っている。「あとはねー」といいながら、高橋は、勝手知ったる給湯室から、ふだん使わない小ぶりのガラスポットを出してきた。
業務用のペーパーフィルターを大胆にはさみでカットし、自分がさしいれした豆を入れ、きれいに端を折ってマスキングテープで厳重に止めてしまう。そこへ高橋は、やかんから残り湯を細く注いだ。

「先にちょっと蒸らすだろ、蒸らして炭酸ガスを出し切るんだね」
「はー、なんでただのやかんから、そういう細いお湯が出るの」
「角度角度。あと満代への愛」冗談が口をついて出る。自分はどうしてこんなに、心にもない冗談が言えるのだ……高橋は、自分でも不思議に思うことがある。

「照ちゃん生まれたの口からだよねーー」満代はギャハハ、と笑った。

満代と高橋の軽口の間にも、コーヒーはぷっくりとした山になって、しずかに蒸らされていく。

「豆がさ、うれしそうだよね」
と、思いもかけぬリリックな表現が、満代の口からもれた。
「そう思う?」
「照ちゃんがドリップするとさ、豆がねー、わかってもらってるって感じ?」
「そりゃ生豆選りわけて焙煎したりする分、満代よりはコーヒー豆のこと知ってるし、コーヒーへの愛情もあるよ」

高橋は蒸らしに適当な時間をとったあと、口を結んで目をほそめ、しずかに息をはきながら、おもむろに湯を少しずつ注いだ。やかんからは注げそうにないぐらいの、細い湯がおちる。深い香りが二課のフロアを満たしていく。

けっこうな重量をささえるペーパーフィルターが、うっかりぼそっと落下しないようなマスキングテープの止め方をしてある。そこは画家ならではの、図画工作みたいなぐるぐる巻きっぷりだ。

「湯呑みでいいよ、三つ持ってきて」
「はーい」

(はーい、か)と高橋は内心でつぶやく。

なんとなく嬉しそうな返事。真鍋満代の後姿は、背肉がもりあがって疲れ果てたようすだ。悪い性格ではないのだが。
けれども健康そうな感じは損なわれ、不摂生なようす。高橋の親友、嶺生(ねおい)四郎の体のなかにわんさか詰めこまれている「ご先祖さま」たちが、血がまずそうだといって容赦なく、しゃーしゃー嫌う理由がよくわかる。

満代はまだ二十代さいごの年、ひとりで育てているだいじな一人息子も小さいというのに。


極上のコーヒーと、生涯ひとりの親友。--秋の月、風の夜(2)へ
このシーンに関する「ネタばれミーティング」はこちら

マガジン:小説「秋の月、風の夜」
もくろみ・目次・登場人物紹介
ネタばれミーティング収録先:高橋照美の「小人閑居」

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!