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時間がどこかへ飛んでいる。【物語・先の一打(せんのひとうち)】38

「……わかった……」四郎は、奈々瀬と同じ呼吸のままささやいた。「誰か、この景色、買って……」

高橋は、なんとなくぼんやりと聞いていた。奈々瀬が「三十円で売ってきて」というのは、単なる比喩だ。四郎の中では、比喩が光景として展開している。

「……来た」四郎がつぶやいた。「黒い石のはめこみの本持った人……銀貨……くれる……銀貨やめて、本……くれる……これ……世界の秘密を書いた本……この景色と交換して……みんなのこと、ちゃんと葬ってくれる……?俺の罪障感も俺の責任も、ぜんぶ一緒に、渡してもええ?」

本は、高橋と奈々瀬に、ありありと感覚された。まるでそれは、カルメン・バルセルスの写真の話を聞いた時のように、自分たちの脳内の想起に、色がついていた……鮮やかな色が。

本の表紙には、金の縁取りで磨いた黒曜石のレリーフが、大きくはめ込まれていた。つやつやとした浮彫になっているそれは、撫でると室温よりすこしだけ冷たかった。まるで百科事典サイズよりもっとでかいそれは、中世ごろの活版印刷かと思いきや、手書きなのだった。中には延々と字が書かれていた。開いただけで全能感と「わかった」という感覚があふれるように飛び込んできた。

アルキメデスが風呂から飛びだした瞬間の「エウレーカ!(わかった)」という感覚が、二百倍にも五百倍にもなって、延々とあふれながら飛び込んでくるような……そんな全能感と「わかった」という感覚。

「わかった……俺、ここにおってもええ……生まれて、生き続けても」四郎の声はささやきだったが、本を読んでいるときの喜びがそのまま、生きる喜びにシフトしていっているようでもあった。

高橋はそっと、自分の脳内の黒曜石のレリーフに触れた。日本画家高橋雅峰として、古い工芸品の修復をする手が、じっとしていなかった。

指から流れ込んでくるのは、これが非常に大量の黄金と引き換えられた工芸品だということだ。金の縁取りは錬金が粗かった。24金どころか18金にも届いていないような……つまり非常に古い時代の錬成だった。黒曜石をこの大きさで一枚石として切り出してレリーフとして磨くには、どれだけ大きな塊をいくつ台無しにしたか、そんなことまでが指から流れ込んできた。

黒曜石の丸いレリーフを中心に、金の縁取りが三日月のように斜め下にある。対角線上にダイヤがはめ込まれていた。月長石かと思ったがそれはダイヤだった。

不意に、高橋にはレリーフの全貌が理解された……日蝕の太陽だ……。

「ここに、いつまでもおりたい……」四郎は、うっとりとした声でそう言った。「世界の秘密が、この本に、ぜんぶ書いたる……」

高橋もそれに賛成だった。ずっとずっと、表紙に頬ずりをしていたい気分だった。

奈々瀬は言った。「そんなに幸せなら……いてもいいと思う……」

ああ、生まれてくる前は、きっとこんなところにいるのだろう。

四郎は本を閉じて、「持って、出れるとええな」と言った。「歩く……もと来た道は、もうどこにもあらへん。ドアあけたら、もう、空が見える」

四郎は急に眼をひらいた。「やっぱり、現実の世界には、あの本持って出れなんだ」

「すばらしい表紙と、すばらしい中身だった」高橋はつぶやいた。「体の掌握感は、大丈夫か。全員、手足を握ったりのばしたり、あと深呼吸」

高橋はふと四郎の顔を見て、四郎がさめざめと泣いているのに気がついた。「あの本……惜しかったな」

「惜しかったどころか……世界のひみつが全部、俺の中からすとんと抜けて終わった」

「世界の秘密か」高橋はあの黒曜石の日蝕の太陽の、手ざわりと意匠を満足気に思い出していた。「それはこれから、お前と僕と奈々ちゃんが掘り起こしていく先々に散らばっているだろう」

時計は、朝の七時を回っていた。三人は、実に六時間以上を使ったらしかった。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!