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サヨナラオウチ。 【物語・先の一打(せんのひとうち)】4

高橋が「あたりをつけて、誰かに松本駅まで送らせる」と言ったのを信じて……

奈々瀬は、もう一度さっきのファストフード店に入った。
口が切れていようが、食べたくなかろうが、水分摂取と腹ごしらえはしておくべきかも。という考えがよぎり、単品のハンバーガーと氷なしの水を頼んだ。
けれども。

品物がトレイに並んで目の前に出てきたら、やはり無理だとわかった。
のどを、とおらない……

小銭を出すとき、トレイを持つとき。痛さがある。うまく動かせない。
母親にひっぱられて倒れた時だ。
片方の腕と肩、手指を痛めたことに気づいた。

表通りに面した席にすわった。ため息をついた。
ため息にならないほど息が浅い、呼吸がふるえている。

ハンバーガーの包み紙を手でさわって、でも食べる気がおきない。

体に力が入らない。
ぼんやり窓の外をみていた……。

そのとき、
(あ……っ……)

奈々瀬は窓の外を思わず見なおした。
ファストフード店の前の路肩に、高橋の電話からわずか三分後に止まったのは、父、安春の車だったのだ。

「奈々瀬すまん」ウィンドウ越しに ”おいで” の手つきをした安春は、コートのボタンを、一段ずらしてはめていた。

奈々瀬はそそくさと立った。
ハンバーガーを包みのまま荷物に入れ、水を半分飲んで、トレイを片付けた。こんどはなんの涙があふれてきているのか、わからないまま。

父の後をついていき、奈々瀬は車の助手席に乗った。

「照美くんから電話をもらって。おおげさだと思っても緊急避難するように、お母さんが暴力をふるってしまう以上は、その場にいようとすると心身ともにダメージが増すから、思い切っていちど物理的に離れてくださいと。
いろいろ話をしてくれた。お父さんが守ってやれなくてごめん」

それだけ言うのがせいいっぱいだったらしい。
安春は、黙って松本駅まで運転した。
奈々瀬はただ、助手席で泣いていた。


額田(ぬかた)家のあやうい均衡は、何年も前からひっぱったものだった。
感情を暴発させるクセのある母親が、生活時間をずらすことで保たれていた。

昼の十二時四十分ごろ、母親が出勤。それから夜十時すぎまで帰宅せず。家族が寝静まってからしまい湯。食事も家族と別にとる。午前中は寝ている。

その生活時間のずれをもって、娘への八つ当たりを防ごうと。安春との衝突を防ごうと。
母親から直接の意図を聞いたのは、安春だけ。それも断片的に、

「顔合わせずにすむ仕事、みつけたわ」
そんな話をされて、夫としての安春は(家庭内別居のつもりか)というひとことを呑み込んだのが、何年も前のこと。

生活時間のずれによって、互いの激突はいちおう防がれていた。

そして奈々瀬は小学生のころから、みそ汁だの野菜炒めだのを作っていた。
高校にあがって十六歳が終わろうとする今までずっと、家族のごはん係は奈々瀬だったのだ。

「メシ係だから……置いてやってる……」

奈々瀬は苦しげな声で小さくつぶやいた。
さっき母親から飛び出してきた、わけのわからない言葉を言ってみたのだ。

やっぱり理解できない。そんな言葉を実の娘に吐けるのだ。そうなんだ。


奈々瀬が小学生のとき、近所の大学生に車に連れ込まれそうになって、なぜだか勤めに行かずに戻ってきていた母親が、大学生に飛び蹴りをくらわせて警察に突き出したという一件があった。
だから安春と奈々瀬は、「感情の起伏はどうしようもなく激しくても、奈々瀬を大切に守りたいお母さん」という理解でいたのだ。

額田家に滞在していた四郎を、家から叩き出したときもそうだった。
奈々瀬が危ないと誤解した母親が、四郎を叩き出してしまったのだと。

そういう理屈では、なかったらしい。

こんどは、奈々瀬を叩き出すのだから……


安春は黙って運転をしながら、高橋照美から電話をもらったときのことを思い出していた。

――どんなに思いやっていても、行動で支えてやれないときはあります。もし緊迫しすぎてて動けないようでしたら、安春さんが怒って頭を冷やしてくる体(てい)で、黙って出てきてしまってください。できますか?

そのとおり、安春は身動きが取れなかった。怒ったふりもできないほど、自分の中のなにかがすっぽぬけていた。

ただおろおろと、奈々瀬かわいさに黙って車を出してきただけ。そんな感覚でしかなかった。

――無理そうでしたら、ほかをあたります。

あのとき、とっさに返事ができなかった安春に、高橋はそう言ったのだった。

――ほかって誰を。

安春はうろたえて、ひそひそ声で聞いた。

――長野県警のリョウさんとか。四軒むこうの床屋さんとか。近くの豆腐屋さんとか。奈々ちゃんの学校の先生とか。なんとか話して動いてもらいますから、ご無理のないように。

――いや、行くよ、大丈夫だ。そんなトコに連絡とらなくていいよ。

動揺するにもほどがある、と安春は自分で思ったのだった。

こんなに自分が体面だの体裁だのをとりつくろっていたとは、思っていなかった。
こんなに自分が、ことなかれ主義者だったとは。
こんなに何も決められないとは。
こんなに次どうしたらいいか、わからないとは。

それらがこんなに自分の首を絞めているとは、思ってもいなかった。まったくの無意識だったのだ。

まったくの無意識……


――今の枠組みのなかで、何とかなるんじゃないか。という読みの甘さがあだになって、ハラスメントは助長されて取り返しのつかない状態へおっこちていきます。
体面や体裁や奥様の良心への期待は、おつらいでしょうが、この際すっぱりあきらめてください。
同居でなんとかやりすごそうとすればするほど、心身のダメージはつもります。たぶん安春さんが決断を先送りしてしまうのは、知らずのダメージゆえでしょう。
いそいで、奈々ちゃんだけでも守ってやってください。なんとか手をつくして、次どうすれば奈々ちゃんに最適かをご一緒に考えましょう。


客先の職場ハラスメントを何件か扱っていた高橋は、はっきりとそういった。


「連絡するから。ありがとお父さん」奈々瀬はまともに安春の顔を見られないで、うつむいたまま早口でそういった。またもや涙が頬を伝って、とまらなかった。

「うん」とだけ、安春は言った。当座の金を十万円持たせた。自分の財布から金を出して、乗車券と特急券を買ってやった。


十九時台の特急を、安春は表情もなく見送った。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!