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僕らの平日夜10時。 【物語・先の一打(せんのひとうち)】6

改札を出る前から、背の高い四郎と、グレーの背広の高橋の立ち姿が見えていた。奈々瀬は小さく手をふった。

「お疲れ」高橋がそう言ったとたん、奈々瀬はどうっと涙をあふれさせた。

(あれ……だめだ……なんでこうなの……もう泣き止もうって思ったのに……)

「ショックなことがあったときは、目の水は出したもん勝ちだ」高橋はいつものしゅっとしたハンカチのかわりに、ふわふわのガーゼハンカチを渡した。「車で話そう」

人目を気にしなくていいように、高橋はさっさとシルバーのA4アバントに、奈々瀬をつれていった。四郎と奈々瀬を後部席に座らせて、自分は運転席からうしろを向いて話す。
「マスク、取れる? まだしてたほうが、安心感がある? 奈々ちゃんがおちつくほう、安心なほうを選んで」

奈々瀬は駅の売店で買った使い捨てマスクの耳ゴム部分を、指でさわった。
母親に殴られた頬と、切れた唇の腫れぐあいが、自分でとまどう状態になっていた。
高橋にみせたくない。
四郎にみてもらうには、もう少しだけおちつきたい。

「しばらくこのままで、いいですか」
奈々瀬は言ってみて、愕然とした。しゃべりにくい。

高橋が「いいよ」と言う前に、そのしゃべりにくさに対して四郎が、「歯で口ン中切ったの、障(さわ)るわな」と言った。

高橋は「四郎から説明を頼む」とうながした。

「あのな奈々瀬な」
四郎は車内灯をつけて、メモを指さしながら、奈々瀬に説明した。
「お母さんからひどい目にあったで、俺ら奈々瀬に安全に安心に、休んでもらいたいんやん。ほんで、今はなあ、奈々瀬が自分の中でも、こうしたいとか、これでいいとか、これはイヤとかが、複数同時にあっちこっちするかもしれやへんで、不愉快でも俺らにいろいろ、教えてな。気が変わったらそのつど」

奈々瀬は黙ってうなずいた。

「世間的にみて俺ら、二十三歳の男と十九歳の男やもんでさ」

四郎は口ごもって、なんとか言った。「青少年育成? 保護育成? 条例上」

トーキョートッキョキョカキョク、のように、それは発語がおかしかった。
四郎が自分で ”これは必要な措置だな” とは腹落ちしていないハナシなので、そうなる。

「条例上、一緒におると、奈々瀬に、社会的な安全や安心感を手渡してやれやへん。はっきり言うと、奈々瀬にとっては俺も高橋も単なるオオカミさん。ほんでもなんとか冷静な時間多めにして、奈々瀬の役に立ちたいのは確か。

ほんで今夜の休み方は、駅前のホテルも選べるし、高橋の知り合いで詮索しやへん口の堅い優しい女の人に一緒におってもらうことも選べるし、俺らが高橋の家に案内して、俺ら二人が奈々瀬のじゃませやへんように工夫することもできるように、準備したうえで奈々瀬の状態とか気持ち、確認しようと思った。ここまでの話は、大丈夫か」

「大丈夫」

奈々瀬のようすを見ながら話していた四郎は、結局言った。
「あかんわ高橋、今晩お前んち貸して」と。

「えっ」
「ごめんけど、高橋いろいろ気ィつかって準備(まわし)してくれたけど。奈々瀬が一人もいややろうし知らん女の人もいややろう。俺ひとばん奈々瀬のそばで寝ずにおるぐらいしたれるでさ。奈々瀬がいらん説明せんでも、とにかく休めるようにしたりたい」

「それなら、僕が会社に泊まる、君たち二人に部屋を貸す……ってのどう」高橋はたずねた。「奈々ちゃん、どうしたいか考えまとまる?」

奈々瀬は二人を見た。
大事にしようとしてくれているのはわかる。
それが腫れ物にさわるようになりつつあるのは、誰かの過去の恐怖が、今現在に影響を及ぼす形で、はさまっている可能性がある。

誰だっけ。四郎が誰かの本の話をしてくれたことがあった。
自分がいっぱいいっぱいのとき、どうしてだか、さらに他人を助けるはめになる。それをすると自分の壁が破れるだのなんだの。

普通の人にはいい突破口になるのかもしれないけれど、自己犠牲を強いられてきた子供にとっては、さらにもっと自己犠牲を重ねて、倒れて死ねよっていうような記述の話……そんなにおい。
(いいでしょう。上等。それをやりましょう。)

~と思うほど、今夜の奈々瀬は、ささくれだっていた。

「二人とも普段のとおりに、私のために変更しないでください」奈々瀬は動かしにくい口を動かして訴えた。「あてにして転がり込もうとしたのはすいません。でも明日も二人とも、仕事でしょ?」

「うーん」

仕事、と高橋はつぶやいた。

「仕事は、あさってもしあさってもある。せきとめない限り、どんどん増えるし増やせる。でもね奈々ちゃん。人を人として尊重して接する、ってのはさ。ほんとに時たま、あなたのほうが仕事より大事です。って全世界に表明しなきゃ、その人にとっての自分の、そのあとがおかしくなるタイミングも、あるもんなんだ。今夜と明日は、たぶんそれ」

高橋はそれから、四郎と奈々瀬をみながら言った。

「僕はいろんな企業さんのお手伝いをしている。大学一年のときからずっと。もうかれこれ六年だ。いろんな社長さんに、 ”あのときこうすればよかった” って打ち明け話をしてもらった。仕事をストップできないのは、こわいから。恐れとか恐怖とかがそうさせるだけなんだよ多分。それって愛じゃない。


自分自身と、大事な人を大事にするより、大事なしごとは、この世にはない。


稼ぐすべての仕事はさ、今夜と明日みたいな、緊急避難の短距離走の次に来る仕事だ。大事な人を大事にし ”つづけ” られるように稼ぐ仕事だ」

四郎はもじもじと言った。「俺も高橋も、明日は有休てって、給料もらえて休み出る日の、許可とった。あさって以降は、また組み立て直す。どうなるやしらん、けど俺、奈々瀬のこと大事にしたりたい。そのことで居心地悪うおもわんといてくれるとうれしい」

(あんなにいつもいそがしいのに)
思ったが、もうしゃべるのが億劫だった。奈々瀬は黙った。

「思ってたよりしゃべるのがつらそうだ」高橋は言ってみて、四郎に確認した。「けがの具合からして、外科の夜間回ったほうがいい?」

「いや」四郎は奈々瀬の顔を見ながら、同意不同意、好き嫌いを読むようにしながら、しゃべった。「俺が応急処置する。あれこれ考えずに三人でお前んち。いろいろあとの都合のええようにやる余裕、奈々瀬にもうない。やろ?」

奈々瀬は黙ってこくりとうなずいた。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!