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お・や・す・み・前の。【物語・先の一打(せんのひとうち)】10

《前回までのあらすじ》 額田(ぬかた)奈々瀬は、松本に住む女子高生。両親のケンカを止めそこね、感情暴発した母親に暴力をふるわれた。家から緊急避難して、初恋相手の四郎……の親友・高橋照美の名古屋の家に泊めてもらい、布団を少し離して横になり、四郎と手をつないだところ。

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行かせてもらえなかった修学旅行より「いいもの」を手に入れた気分で、奈々瀬の手を握って「おやすみ」と天井を向いて言ってみた四郎だった。
修学旅行では「おやすみ」と一度言ってから話が続き、「もういいかげんに寝ようよー」と際限なく言いあったと話してくれたのは、奈々瀬だったから。

奈々瀬は口と頬の傷がつらいらしく、「おやすみ」と返してはこなかった。握った手の安心感から、四郎は大丈夫だろうと踏んで、話の続きを天井に向かって話した。

「口と、右の肩ひじ手指、手当したらんならん」
そう、高橋が奈々瀬にぎこちないだけではなく、四郎もそうなのだ。
高橋の前ではマスクを取るのをためらった奈々瀬を慮って、四郎は車の中でけがの具合をあらためることを控えた。さらに言った。

「去年の冬みたいにうまいことしたれん、俺おちつかん」

黙ったまま奈々瀬は、四郎とつないだ手を、きゅきゅっ、とやわらかく握った。四郎はその無言の「手当を任せる」というOKに、全身がどくんと波打つような気分を味わった。これは何の衝撃なのだろう。

けがの手当という形で、パーソナルスペースに触れるなんて……

奈々瀬から、四郎への信頼感のようなものが流れ込んでくる。四郎が持っているような緊張や不安はない。わずかに恥ずかしいだけ。

そうだった。奈々瀬はハルとヨシのお姉さんだった。中高生男子がどんなことに支配されてしまうのか、わかっているのだった。

四郎は観念した。先日キスをしたとき交わした会話で、奈々瀬は「体の反応を読み取っちゃっても、引かないでね」と言っていた。こっちがどぎまぎする分、向こうもわかりすぎて困る。お互い様だと思うことにした。

四郎は薬箱をひっぱり出してきた。奈々瀬の布団を半分のけて、肩と胴に上着をかけてやる。
「いややったり、痛かったりしたら、手でトンってしやあよ」

四郎は奈々瀬の首肩背筋に触れた。すぐに寝かせたままの手当をあきらめた。
「引っ張り倒されたとき、変に足とられて、たたら踏んだやろ。左の股関節、違和感あるか」
奈々瀬がくぐもった声で「うん」と言った。

四郎は奈々瀬に起きてもらって、左足を前に放り出す形で座ってもらった。そして奈々瀬の足をそっとかかえて、自分の胴に足の裏をつけさせた。

「これ、けっこう遠慮するんやけど、足の裏べたーっと俺につけやあよ。押しひねりして、股関節の違和感とるでさ」

奈々瀬に左股関節に自分で手を添えてもらいながら、片手をつないで互いに引き合い、左足を、押し……ひねらせ……押し……戻した。

「立ってみて」

奈々瀬に直立姿勢をとってもらい、足踏みをしてもらった。

「次、腰椎。うつ伏せに寝れる?」

奈々瀬の腰に触れる。どきどきするようなくびれとやわらかい曲線を意識から追い出しながら、

(頸椎四番。頸椎三番。腰椎三番……)

途中で九九がわからなくなった小学生のようにパニクっている。体が痛いほど興奮している。

引きずり倒されたときのくるいを指で触れ、ゆっくり筋をなおす。
「はまった感じ、わかる?」
奈々瀬はうなずいた。指と肩と脇腹のズキンズキンが、半分ぐらいの障りにやわらいだ。

つぎは、口の中の手当。かなり口を開いてもらわなくてはならず、四郎は奈々瀬に謝った。口と唇と頬が落ち着いたあと、四郎は奈々瀬の打撲に塗り薬を塗った。
きめの細かい、やわらかい肌……

くらくらする。どうにかなってしまいそうだ。

(ご先祖さま。奥の人。俺が。俺があかんやつや)

どうしてって。けがの手当てで身を任せているときに、信頼もへったくれもなくしてしまったらどうなるというのか。もしも自分が奈々瀬の側だったら、もう一度安心して話をするまでに、間柄を戻せる気がしない。だから。だからだめだ。


どうにかこうにか、処置は終わった。

「まんだ痛いやろうけど、とりあえず、おやすみ」
四郎は薬箱を枕元に置き、布団にもぐりこみ、なんとか息を落ち着かせた。

(……おやすみ)
奈々瀬も、目をつむった。元気になれない今夜は、四郎のおののきはスルーでやりすごさせてもらって、目をつむって眠ることにした。

いろんな話も、やり取りも、口のけがが治って、元気を取り戻してから……。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!